明石(中世)
鎌倉期から見える地名。明石郡のうち。鎌倉期に作成された「源平盛衰記」巻37に,一ノ谷の戦を前にした源義経が「明石」と須磨の間に展開する平氏軍を眺望する記事が見える(有朋堂文庫)。また,巻43によると壇ノ浦の戦から凱旋した義経が,平氏の俘虜を連れて「播磨国明石浦」へ到着したという(同前)。「吾妻鏡」文治元年8月24日条によれば,下河辺行平は治承・寿永の内乱中の勲功を賞されて源頼朝から一国の守護職を宛行われたとき,「明石等之勝地」があるので播磨国守護職を所望している。当地を「勝地」と見て遊楽に赴く貴顕の数は多く,「明月記」寛喜3年9月11日条によると湯治に名を借りて和泉堺をはじめ「明石」などを観覧する貴族の姿が記されている。月の名所としても知られ,12世紀後半の歌人西行は「月冴ゆる明石の瀬戸に風ふけば氷の上にたたむ白波」と詠んでいる(山家集)。室町期成立の「峰相記」には鎌倉末期の播磨国を舞台に活動をほしいままにした「悪党」らを制圧するため,「地頭御家人ヲ結番シテ明石・投石両所ヲ警固」したものの正中・嘉暦年間の頃にはその勢力は却って増したという(続群28上)。当地は軍事的要衝としても重視されたのであろう。貞和3年6月24日の刑部守延坊舎等譲状に広峰社参詣旦那の1つに「明石」が見え,当地が広峰社の信仰圏に含まれていたと考えられる(広峰文書)。また,応安4年に九州へ下向した今川了俊が著した「道ゆきぶり」に「明石の浦はことにしらはまの色もけぢめみえたるここちして 雪をしけらんやうなるうへに,みどりの松のとしふかくてはま風になびきなれたる枝に手向草うちしげりつつ村々なみたてり」という景観が描かれている(群書18)。応永10年2月21日の播磨国矢野荘学衆方年貢等算用状によると,応永9年3月26日播磨守護が明石に館を構えた際に矢野荘に人夫役が課されており,その使3人分の宿泊代として120文が計上されている。しかし,この館普請は進捗しなかったらしく,同年7月10日〜9月23日にさらに長夫・仕丁役が追加された。また,応永12年2月12日の播磨国矢野荘学衆方年貢等算用状并未進徴符によると,応永11年6月29日に「唐ノ牛ノ皮持之夫二人 衣笠方ヨリ明石まて十四日役」として9升8合が計上されており,この年に来航した明使のもたらした中国産の牛皮が矢野荘民を徴発して明石まで運搬された(教王護国寺文書3)。永享4年8月16日,将軍足利義教は日明貿易を再開し,幕府船・相国寺船・諸大名船の3艘から成る遣明船団を観覧するため兵庫へ下り,明石などに遊覧している(看聞御記)。下って戦国期の文明14年12月25日の旦那売券によれば,明石を拠点に紀伊熊野那智社への参詣者を勧募する熊野先達がいた(米良文書/熊野那智大社文書2)。なお,延徳2年11月21日の旦那売券にも「播摩(磨)国明石之旦那,地下一族共ニ,播州限知行分」と見え,当地を本貫地として播磨以外の地域にも繁延する一族がいたことが推測される(同前)。一方,文明19年2月21日,奈良興福寺大乗院主尋尊は自分の弟子や一条家ゆかりの人々とともに有馬温泉への旅行の途中で明石を訪れ,八棟寺で平清盛像を見るなど観光を楽しんでいる(大乗院寺社雑事記9)。戦国末期には明石をめぐる情勢も急を告げ,天正6年と考えられる5月4日の明智光秀書状では,同月2日に光秀は明石に着陣している。中国地方に覇を唱える毛利氏との「西国与分目之合戦」を控えた陣中で「明石かた(潟カ)・人丸塚・岡辺の里」などを見物している(竹内文平氏所蔵文書/大日料11-1)。同13年5月20日の羽柴秀吉朱印状写によると,四国仕置のため秀吉は一柳末安・赤松広英・加藤茂勝・津田小八郎らに6月16日以前に明石から四国へ渡海するよう命じている(伊予小松一柳文書・黒田文書・近江水口加藤子爵家文書・竹内周三郎氏所蔵文書/同前11-16)。また,翌天正14年9月25日の羽柴秀吉書状では九州仕置の戦時体制のもとで明石から兵庫までは飛脚用の船を「不寄夜中申付」られることが「明石惣中」に対して命じられている(柏木文書)。一方,戦国期に日本を訪れたイエズス会宣教師らは,明石を領したキリシタン大名高山右近に関してしばしば記述を残している。右近が摂津高槻から明石に移されたのち,明石の僧侶らはキリスト教への改宗を危惧して大坂の秀吉の母と妻に改宗阻止を嘆願したものの,奏功しなかったという(1586年の報告書/イエズス会日本年報下)。翌年には,明石の重立った者たちが協議のうえで「諸人の署名した一紙をジュスト右近殿に呈し」,キリシタンになることを決意している(1587年の日本年報/同前)。こうした記述から戦国末期の明石には次第にキリスト教が浸透していったと考えられる。しかし,天正15年6月の秀吉によるキリスト教禁教令発布後も右近は堅信を守ったために,明石の所領を没収された。その際,「当八七年の七月の末に,夜中ジュスト右近殿の重立った家臣が一人明石の町に着き」,右近の所領没収の件を伝えるとともに関係者に逃亡を勧めた。このため,戦役に駆り出されていた男が多かったせいもあり,「明石よりの道路は全く貴族の夫人達の,家を棄て,大なる恐怖を抱いた者のみで,これを見ることは我等(宣教師ら)にとり十字架であり,大なる苦痛であった」とその逃亡の様子が生々しい筆致で報じられている(同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387245
最終更新日:2009-03-01