ケータイ辞書JLogosロゴ 阿方村(中世)


兵庫県>小野市

 室町期〜戦国期に見える村名。播磨国加東郡東河合のうち。文安2年9月2日の但馬妙見社宛の山名持豊寄進状に「東河合阿方村領家半済公文給算失文料〈上月伊勢守跡〉」とある(日光院文書)。この文書の裏書には「山名金吾大明寺殿御子息宗峰之赤松播磨守御退治御立願に依之,御寄進也」とあり,嘉吉の乱後,文安元年10月,赤松一族の赤松播磨守満政は播磨へ討入りを図った。この反撃のため山名持豊は妙見社へ立願し当村を寄進した。満政の反撃は失敗するが,のち赤松政則は応仁の乱の混乱に乗じ播磨を回復する。文明15年12月真弓峠の合戦で政則は山名氏に敗れ,堺へ逃れた。同16年3月28日,山名政豊は日光院へ前回と同様阿方村を寄進し,同年11月22日に阿方村公文職の三季臨時課役諸公事を免除している(同前)。なお,前記の上月伊勢守は南北朝期以来の赤松氏の直属家臣であった。天正16年成立の「赤松記」に「阿方村は上月伊勢と申人の跡式にて欠所に成候て,小河と阿方両方,祖父因幡守に被下候」とあり,天正年間頃,得平因幡守の領する所であったが,河合八郎に押領されたという(群書21)。この河合八郎は北に隣接する河合の在地土豪と推測される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387256
最終更新日:2009-03-01




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