ケータイ辞書JLogosロゴ 朝来荘(中世)


兵庫県>山東町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。朝来郡のうち。城崎郡新田荘と併せて朝来新田荘と称されることがあった。建久2年の長講堂所領注文(島田文書/鎌遺556)に「朝来新田庄」とあり,後白河法皇の六条殿長講堂所領の1つとして雑役などを勤めた。当荘は元来,後白河院の寵妃高階栄子の知行地で,建久3年2月には院からはほかの長講堂領とともに栄子所生の女宣陽門院(覲子内親王)に譲与されている(大徳寺文書/鎌遺584など)。弘安8年の但馬国大田文によれば朝来郡の荘園として「朝来庄 六十四町五反〈本院御領 地頭安坂薩摩八郎左衛門尉祐氏 公文勢至丸御家人〉」「同(朝来)余田 十町六反〈地頭同(安坂)薩摩六郎入道専生〉」とある。地頭の安坂祐氏・専生は伊豆の関東御家人伊東氏の一族と思われる。公文の勢至丸は国御家人。荘田64町5反の内訳は仏神田7町5反余・地頭給5町1反余・定田51町8反余,余田10町6反の内訳は領家分9町6反余・地頭給1町。下って応永14年3月日付宣陽門院御領目録(八代恒治氏所蔵文書/大日料7‐8)には「一,長講堂領……同(但馬)国朝来新田庄……年貢上品紙五百帖」と記すが,次いで応永20年の長講堂領等注文(東山御文庫記録/大日料7‐19)には「但馬朝来庄 同(守護)」と見え,但馬守護山名時熙に押領されていたらしい。地頭職については明徳2年に「但馬国朝来地頭職」が久下長門守重元に安堵されており,次いで応永32年に久下頼重,長禄3年に久下重国に安堵されている(久下文書/新編埼玉県史資料編5)。久下氏は元来,武蔵国御家人であったが,丹波国栗作郷を本拠として活動した。なお,南北朝期の文和4年8月3日付藤原貞頼宛行状によれば「朝来村宝買堂田」は毎年正月6日の修正会料田に宛てられていたという(国立国会図書館所蔵貴重書解題4)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387325
最終更新日:2009-03-01




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