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「朝妻」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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朝妻【あさづま】 浅妻・朝嬬・旦妻とも書く(万葉集) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
朝妻寺跡【あさづまでらあと】 御所(ごせ)市朝妻にある寺跡... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
朝妻(古代) 大和期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
朝妻荘【あさづまのしょう】 (中世)鎌倉期~南北朝期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
朝妻荘(中世) 鎌倉期~南北朝期に見える荘園名河内国のうち摂関家渡領弘安4年6月日の河内朝妻荘雑掌申状に「東北院領河内国朝妻御庄雑掌謹言上 欲早任庄号以来之例,停止三箇寺山臥之新〈儀〉,如本可遂耕作之由,被仰下事」とあり,当荘の雑掌が三箇寺山臥の非法を訴えていることがわかる(兼仲卿記紙背文書/鎌遺14340)次いで,嘉元3年4月のものと思われる摂籙渡荘目録の東北院領に「河内国……〈多武峰〉朝妻庄 免田十四町 年貢四十二石」とあり,暦応5年正月日の摂籙渡荘目録にも東北院領として同様のことが見える(九条家文書1/図書寮叢刊)このように当荘は藤原道長の娘彰子の御願寺である東北院の所領で,鎌倉期には摂関家の渡領となっており,摂関家は年貢のみを徴収し,多武峰がその給主,あるいは預所となっていたことが知られるなお給主は度々かえられ,南北朝期のものと思われる九条家代々御随身御恩事に「御随身御恩 文永……左番長同久長〈河内国朝妻庄〉」と見え(同前),鎌倉期の文永年間には九条家の随身である左番長秦久長に給されているなお比定地については未詳... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
朝妻村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
朝妻村(近世) 江戸期~明治7年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
朝妻狩座【あさづまのかりくら】 (中世)南北朝期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
朝妻村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
朝妻狩座(中世) 南北朝期に見える地名丹後国のうち「曽我物語」に所見同書「朝妻狩座の事」によれば,往昔,藤原保昌が任国丹後に下って当地で狩りを催した際,夜半におよんで鹿の鳴き声を聞いた妻の和泉式部が「理やいかでか鹿のなかざらむ 今宵ばかりの命とおもへば」と詠んだ保昌は歌に感じてその日の狩をやめ,鹿のために6万本の卒塔婆を書き,6万人の僧を請じて供養をしたそして「朝妻の狩座を末代とどむべし」といって永久に廃止してしまったという比定地は伊根町井室・六万部・泊あたりか現在,井室・六万部の谷間を流れて泊の海に注ぐ川を朝妻川と称し,泊の松岩寺は江戸期に山号を朝妻山と号したという(丹哥府志)また小字小泊の後背山地中腹,新井【にい】へ越す峠のあたりに狩場の桜と称する地がある... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
朝妻【あさづま】 加古川支流万願寺川中流域... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」