ケータイ辞書JLogosロゴ 阿那賀浦(近世)


兵庫県>西淡町

 江戸期〜明治22年の浦名。三原郡のうち。慶長15年池田忠雄領,元和元年からは阿波国徳島藩領。村高は,「郷帳下書」207石余,「天保郷帳」310石余,「旧高旧領」399石余。「味地草」によれば,高389石余,家数205。寛文13年の阿那賀浦棟附帳によると,家数96・人数男214,船数27,高204石余,加子役は15人半。阿那賀港は撫養港・福良港の予備港として,安永年間藩費で改修がなされた。庄屋組は市組に属し,宝永7年庄屋が近藤氏より仲野氏に代わった。鎮守は春日神社,寺院は真言宗春日寺・浄土真宗大谷派永願寺(もと勝円坊)。当浦や伊加利村などの藩有林は阿波の塩田の燃料供給のため重要視され,寛永年間より山林経営を商人に請け負わせた。元禄16年より山口屋五郎兵衛が請山業で成功し,代々請山業を続け,明和5年藩より御銀主の身居【みずわり】を与えられた。その間,海運業・あらめ製造など多角経営で成長し,明治5年頃には藩有林の払下げを受け,淡路一の山林地主となった。享保16年泉州堺の渡辺長易が来住し,仲野安雄らに二条家流の歌学と吉田神道を教えた。宝暦年間には仲野家を中心に俳諧が盛んであった。当浦は鳴門海峡から瀬戸内海にかけての網代(漁場)を藩から認められていたが,天保5年と同15年に阿波国板野郡堂浦との間に漁場紛争があった。北部の草香円山は小漁港で,円山と弁天島がある。判官丸という小丘に,寛延年間大山祇社が建立された(味地草)。明治10年志知川浦の一部(山分)と西路浦の一部(山分)を合併。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387407
最終更新日:2009-03-01




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