ケータイ辞書JLogosロゴ 安楽田町(近世)


兵庫県>中町

 江戸期〜明治22年の町名。多可郡のうち。生野鉱床帯に連なる大点銅山を中心として町場が形成された。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年姫路藩領,寛永16年からは幕府領。村高は,「正保郷帳」は荒田町と見え655石余うち田429石余・畑226石余,「元禄郷帳」(竜野市立図書館蔵)も荒田町と見え681石余,「天保郷帳」では「古者荒田町」と肩書きされ681石余,「旧高旧領」でも681石余。延宝5年の検地帳(安楽田区有文書)によれば名請人数54(うち寺庵4)。嘉永7年の宗門改帳(同前)によれば家数87(水呑17)・人数374,牛29。鎮守は荒田神社。神社はほかに天満神社。寺院は真言宗大乗寺・禅宗光明寺。生野鉱床帯の一角にある妙見山は地内においても鉱石を産し,大点銅山が江戸初期から開かれ,江戸八郎兵衛・大坂十時源兵衛などの山師によって経営が行われた。精錬も地元で行い,銀・銅を吹き分けない荒銅の段階で大坂銅座へ津出しした。鉱山の開発は村々に鉱毒の被害を与え,寛延3年には鉱毒が耕地に流れ農業に差し障るとして,隣村の東山村・田野口村とともに生野代官所へ採鉱願の不採択を訴えている(安楽田区有文書/中町史史料篇)。寛延2年の播州一円の洪水の際は約100軒が流失した。安永2年の大火では約70軒が焼失(安楽田区有文書)。生野代官支配領の頭百姓であった太郎兵衛家は千石太郎兵衛ともいわれ,宝暦年間頃までは持高1,600石余(居村400石余・出作高1,200石余),妻子・家来200人余を抱えていたという。享保17年の飢饉の際は救恤のため米麦1,000石を代官所に差し出した。しかし,農業経営のみであったため次第に困窮化し,嘉永5年には「只今は水呑同様の百姓」と代官所に助力を求めている(同前/小作騒動に関する史料集)。往時の繁栄の名残は共同墓地の一角にある3基の巨大な墓石と屋敷跡に見られる。天明5年の飢饉の際近郷の村々が強訴を計画し地内貝野に百姓が集合した。太郎兵衛家が生野代官所に通報したために手代によって解散させられたという。慶応2年にも地内下河原に小前百姓が集結し村役人層と対立した事件が起こった(同前)。明治22年中村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387512
最終更新日:2009-03-01




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