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- 荒田村(近世)とは
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荒田村(近世) 江戸期~明治4年の村名因幡【いなば】国高草郡のうち新田とも書く湖山池南岸に位置し,青島の南西に立地する地名は,高魂命五世孫劔根命の子孫荒田の直の姓に由来するという(因幡志)鳥取藩領村高は,拝領高193石余,「元禄郷村帳」193石余,「天保郷帳」214石余(うち新田高21石余),「元治郷村帳」223石余,「旧高旧領」237石余元禄の本免は5.1,「元治郷村帳」の物成は91石余川役2石3斗(因幡志),同じく天保3年には1石,同年の藪役銀2匁(藩史5)戸数は,「因幡志」18,「文久3年組合帳」25「因幡志」によれば,隣村へは東の高住村へ8町,西の松原村へ17町,北は湖山池,南は三山口村に接するまた,氏神は天王社,祭日は9月13日,ほかに因幡観音霊場32番札所の観音堂があり,本尊は三山口村の観音堂に安置されている氏神は,古くは妙劔大明神と称し,祭神は国常立神,明治元年に本殿が焼失した(県神社誌)明治4年鳥取県に所属同年良田【よしだ】村と改称 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
荒田村(近世) 江戸期~明治8年の村名新田村とも書く豊後国海部【あまべ】郡臼杵【うすき】荘のうち臼杵川の下流域左岸に位置する文禄2年太閤蔵入地,同3年福原直高領,慶長2年太田一吉領,同5年からは稲葉臼杵藩領慶長2年の村高177石余,村位は下(臼杵庄検地帳)寛永11年の「高付帳」も同高「正保郷帳」120石余,うち田58石余・畑61石余,「見稲簿」「安政高辻帳」ともに120石余,「天保郷帳」123石余村組は家野村組に所属慶長6年3月,稲葉貞通は当村および門前・家野の3村のうち350石を伊勢宮に寄進した(稲葉家譜)宝永4年10月の大地震は津波・山津波を併発,潮溢により無数の溺死者を出したという(温故年表録)地内では藩主による追鳥狩が行われ(同前),荒田土手は雨乞諷流の場所となった(桜翁雑録)明治4年大分県に所属同8年門前村・馬代【ばたい】村と合併して前田村となる現在の臼杵市大字前田のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
荒田村(近世) 江戸期~明治8年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
荒田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
荒田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
荒田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」