ケータイ辞書JLogosロゴ 在田荘(中世)


兵庫県>加西市

 平安末期〜室町期に見える荘園名。播磨国加西郡のうち。有田荘とも書く。加西市の北西部で,上荘は西在田地域,下荘は笹倉・中富を除く在田地域。寿永3年4月5日に源頼朝は,池大納言平頼盛の母池禅尼が平治の乱のあと頼朝を救ってくれた恩義に報いるため,平家没官領中の頼盛の家領34か所を返還した。この下文案に,「在田庄〈播磨〉」が見える(久我家文書1)。頼盛の孫兵衛佐保教がこれを伝領したが,貞応元年と推定される5月2日付池河内前司入道平保業宛北条義時書状(朽木文書/鎌遺2814)と「尊卑分脈」によれば,保教は承久の乱に京方に与して没落,「承久乱於八幡自害了」とあり,乱後に在田荘は鎌倉幕府に没収された。承久3年8月25日には,幕府が「播磨国在田道山庄預所職」を平保業に与えている(同前/同前2813)。貞応元年7月23日付の北条義時下文によれば,在田荘には,上荘に334石3斗9升6合の田,麦29石8斗4升・大豆8石8斗・胡麻6石4斗の畠が,下荘に736石4斗3升2合4勺の田,麦26石5斗・胡麻2石9斗の畠があり,年貢米のうち200石が天王寺米であった(同前/同前2981)。在田荘は上下に分かれており,在田が下荘,道山が上荘を指すものと見られる。南北朝期の康暦2年10月21日に,将軍足利義満は,九条家が「有田庄」に替えて安田荘領家職を宝幢寺に寄進したのを安堵した(鹿王院文書/西脇市史史料篇)。これは下荘のことと考えられる。下荘はこれ以後あまり見えない。在田は,赤松氏の一族在田氏の発祥地である。天正16年8月に記された「赤松記」によれば,戦国期に赤松寒松軒が「室津より有田の庄へ入部」したので,多可郡野間の在田氏が兵を出してこれを討っている(群書21)。在田上荘は,文保2年8月26日,秋田城介安達時顕によって高野山金剛三昧院に寄進された(金剛三昧院文書/高野山文書2)。元亨2年3月18日の六波羅探題下知状によれば,最初の荘主澄海の下地押領・年貢抑留事件が起きており,「有田庄上方」を地頭代に引き渡すよう守護代小串範行が命じられている(同前)。澄海の押領は南北朝期まで続いた。文和3年3月円明に替わって道俊が在田上荘荘主となったが,この扶持分を安保直実の被官人長浜七郎左衛門尉が違乱し,5月18日に足利尊氏がこれを停止した(同前)。上荘は,満願寺村と道山村に分かれていた。元亨2年11月26・28日に平宗度が,嫡子増一丸(次郎顕盛)に「播磨国在田上庄満願寺村地頭代官職」,次子亀松丸に「播磨国在田上庄満願寺村内久重・菊延・宗光三名」を譲っており(朽木文書/纂集),池氏は在田上荘内に所領を持ち続けている。「在田上庄道山村」は応永28年10月7日の公事方段銭納状に見え,守護方の給人間島・上月・太田・金川・上原・内山の知行分は総計11町5反余,要脚段銭は6貫170文であった(金剛三昧院文書/高野山文書2)。金剛三昧院領在田上荘は一円知行地であったが,公文職・図師職・惣追捕使職・田所職が守護の被官人らによって違乱・押領されており,永和3年には,8月6日,11月24日,12月15日と相次いでこれを停止する室町幕府管領奉書が出された(同前)。文明2年4月の宥尊敬白案によれば,公文景行・吉代が「賀西郡道山上御庄」を本主金剛三昧院に背いて押領しており,これを退けるようにと祈願がなされた(同前)。年不詳だが鎌倉期の9月20日付権律師実円書状に,「延勝寺所司等与播磨国在田上庄内満願寺地頭代,寺用相論事,就和与六波羅被注進候」とある(朽木文書/纂集)。貞応元年当時の天王寺米と同様に,京都の六勝寺の1つ延勝寺に対して,在田上下荘の年貢米から一定のものが納められていた。延勝寺米は室町期に万里小路大納言家の所領となった(建内記/古記録)。この年貢米の下地は特定されていたようである。延慶元年の在田上荘田地坪付帳には,長谷寺光明院の寺田が記載されている(金剛三昧院文書/高野山文書2)。坪付帳の地名は,現在も西在田地域に字名・呼称名としてかなり残っている(賀毛15)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387527
最終更新日:2009-03-01




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