ケータイ辞書JLogosロゴ 鵤荘(古代)


兵庫県>太子町

 平安期に見える荘園名。播磨国揖保【いいぼ】郡のうち。「法隆寺別当次第」親誉大徳(長暦3年12月補任,在任9年)の項に「播磨鵤御荘」の名が見える(続群4下)。「日本書紀」推古14年条に「播磨国水田百町施于皇太子。因以納于斑鳩寺」,聖徳太子の講経を喜んだ推古天皇が聖徳太子に播磨国の水田100町を与え,斑鳩寺(法隆寺)に納められており,通説はこれを鵤荘の起源とする。天平19年2月11日の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳には,推古天皇戊午年4月15日に聖徳太子が同じく講経により「播磨国佐西地五十万代」を施入され,「伊河留我本寺・中宮尼寺・片岡僧寺,此三寺分為而入賜岐,伊河留我寺地乎波,功徳分食分衣分寺主分四分為而,誓願賜波久」とある(寧遺中)。「上宮聖徳法王帝説」には資財帳の記述とほぼ同じ内容ながら地名を「播磨国揖保郡佐勢地五十万代」とする(思想大系)。嘉暦4年4月作図の播磨国鵤荘絵図に「片岡庄」が見え,絵図と一致する現在地に片岡があり,鵤荘の遺称地太子町鵤に字中宮寺があることは,先の法隆寺の資財帳の記述を裏付けるものといえる(法隆寺蔵/県史2)。資財帳にはまた「揖保郡五地 於布弥岳 佐伯岳 佐乎加岳〈小立岳 為西伎乃岳〉」,「合池陸(六)塘」の1つに「播磨国揖保郡佐ゝ山池一塘」が見え,鵤荘絵図に佐□岡山・佐岡・楽々山【ささやま】・小立岡・大立岡などが描かれており,佐乎加【さおか】岳・小立岳・佐々山はそのまま符合する。さらに「風土記」揖保郡枚方里に佐比岡・佐岡・御立阜・三前山と頂上に「高三尺許 長三丈許 広二丈許」の岩がある大見山が見え,枚方里の西に隣接する広山里に佐々山が見えることから,佐西地あるいは佐勢地が鵤荘の前身であることは確かで,それは「風土記」の枚方里と広山里を含むものであったと考えられる。於布弥岳は大見山であり,佐伯岳は佐比岡・佐□岡山,為西伎乃岳は三前山かと思われる。資財帳は佐西地の成町を219町1段82歩とし,「日本霊異記」第5には273町5段余,「上宮聖徳法王帝説」には300余町(思想大系),「聖徳太子伝暦」には360町とあり(続群8上),そののち戦国期に至るまでの史料はすべて360町とする。ただし鵤荘絵図にのみ東3箇条・西3箇条各180町5段で,合計361町とある。平安中期まで逐次開発が進み,公田360町に固定されたことがわかる。立券荘号を示す確実な史料はないが,前記の別当次第の親誉大徳の項に「此任中寺家之田畠四至,一廻官省府(符)宣旨,被申成下,或寺家之寺主慶好為実検使播磨鵤御荘下遣,謂後朱雀院御代,長者宇治殿下」とあり,後朱雀天皇の長久元年6月の荘園停止令に関連して,四至牓示の上,不輸不入の官省符荘として確立したものと思われる。鵤荘絵図には「御牓示石」「御牓示」などと記された12個の黒丸印と西北隅に1個の白丸印が描かれており,大市郷との境に1個,弘山荘との境に8個の黒丸印のほか,3個の黒丸印と1個の白丸印は弘山荘内に描かれている。これは弘山荘が鵤荘に拡張されたことを示し,牓示が1回限りでなかったことを物語っている。鵤荘東南と弘山荘矢田部の境で発見された石が牓示石として,昭和46年県史跡に指定されている。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387613
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ