ケータイ辞書JLogosロゴ 鵤荘(中世)


兵庫県>太子町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。播磨国揖東【いつとう】郡のうち。「吾妻鏡」文治3年3月19日条に「鵤庄地頭金子十郎」,同書安貞元年6月23日条に「鵤庄内久岡名地頭青木兵衛五郎重元」の名が見えるが,いずれも法隆寺の訴えにより「上宮太子聖跡」「太子御起請異他之地」のゆえに「太子殊依執思食有被載趣,二品専所聞食驚也」「右大将軍御時,有御帰依而専興隆」して濫妨狼藉が停止されている。そのほか,建長5年には十余代続いた下司職桑原氏が法隆寺から改易され(春日神社文書/鵤荘資料),康永3年には平安期以来の西方公文職山本氏が違乱のため訴えにより除かれている(斑鳩寺雑記/同前)。「古今一陽集」によれば,建長年間下司善家の殺人事件が起こり,当荘は幕府に収公されたが,長年の法隆寺側の訴訟を経て嘉暦4年3月27日御教書をもって一円に返付された(鵤荘資料)。この折に作成されたのが嘉暦4年4月の鵤荘絵図であり,至徳3年5月に模写された別図がある(法隆寺蔵/県史2)。両図によると,鵤荘は平方条・東保条(東北条)・東南条の東3か条と北条・中条・中南条の西3か条の計6か条に分けられ,中条に聖霊社・太子堂とともに斑鳩寺,惣荘の氏神薭田御社があった。斑鳩寺は鵤寺あるいは大寺とも記されているが,保延4年正月23日執筆の円教寺一日大般若経に「鵤寺住僧慶与」が見え,平安末期の存在が確認できる(大日本古写経現存目録)。弘安3年12月日の鵤荘平方条実検目録(法隆寺文書/太子町史史料編)や応永5年〜天文14年に至る鵤荘政所の記録「鵤庄引付」(斑鳩寺文書/鵤荘資料)などに多数の名が見えるほか,下司・田所・公文・定使・条預・徴使・梶取・中司・図師・沙汰人などの荘官・荘役が見える。また公文職・名主職・寺庵住持職などの補任は預所によってなされているが,薭田社神主職・番匠大工職などは鵤荘政所が行っている。「鵤庄引付」によれば,応永5年頃鵤政所中規式条々が定められ,南北朝の動乱後に鵤荘の経営強化がなされたことがうかがえ,政所には最初南殿と北殿の別があり,のちに南政所・北政所を経て,永享年間には東政所・西政所とされた(同前)。「太平記」に建武3年の新田義貞の鵤荘進駐,文和3年の足利義詮駐在が見えるほか,南北朝期の悪党弓削珍南などの乱入,嘉吉の乱・応仁の乱の山名氏,天文7年の尼子氏の入国などで大きな損亡を受けた。特に戦国期に入って衰亡するさまは,宝徳2年〜天正4年に至る鵤荘寺務年貢算用帳・鵤荘公用銭請取状の数字が如実に物語っている(法隆寺文書/太子町史史料編)。天正5年羽柴秀吉の播州平定合戦によって鵤荘は有名無実となり,天正8年9月の播磨国知行配分により鵤荘は完全に消滅した。このとき斑鳩寺に鵤荘内で300石が寄進されたが,翌天正9年3月18日150石とされた(斑鳩寺文書/鵤荘資料)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387614
最終更新日:2009-03-01




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