ケータイ辞書JLogosロゴ 池尻村(近世)


兵庫県>伊丹市

 江戸期〜明治22年の村名。摂津国川辺郡のうち。慶長年間から幕府領(大和国小泉藩預り地),元和3年伊予国大洲藩領,安永9年からは幕府領(大洲藩預り地)。村高は,慶長10年摂津国絵図453石余,「摂津高改帳」・正保2年郷帳・享保20年郷帳・「天保郷帳」「旧高旧領」はともに503石余。氏神は春日神社(3社),ほかに昆陽下池を鎮護する池宮(現弁財天神社)などがあった。寺院は大雄山最禅寺があり,元禄5年の寺社着込帳(池尻区有文書)によれば,はじめ最福寺といい,明暦年間は真言宗,天和年間は浄土宗の僧がおり,元禄5年当時は播磨国網干臨済宗竜門寺の盤珪禅師の弟子が住職となっていた。同年大洲の如法寺の末寺となり最禅寺と改名した。幕末に曹洞宗に変わり,現在は大阪府池田市陽松庵の末寺。水利は昆陽池と玉田川(現天神川),それに新田中野村西野で武庫川から取水する昆陽井【こやゆ】による。慶長13年に昆陽・池尻両村が出願して昆陽下池が埋められることになったが,山田・野間・友行・時友の4か村が用水確保を訴えた結果,下池の用水が昆陽井の下をくぐる大ゆりの樋の蓋を透き間のある横板に取り替え,昆陽井の水の一部が大ゆりの樋に落ちるようにされた。下池の堤はその後も残っていたが,元文4年その堤を池尻村が新規に腹付けしたとして昆陽・新田中野両村が訴え,寛保3年取払いが命じられた。同年大ゆりの樋での水論により山田村などへの用水源は寺本村の2か所で昆陽井から採ることに変更された。文化2年昆陽池北堤の修復をめぐる争いが池尻など4か村と大鹿村との間に起き,文政元年まで続いた。慶応2年5・8月の大洪水で昆陽井の取水口が決壊,村の北部を守る横手堤も切れ,稲・綿両作に大被害が出た(地域研究いたみ15)。明治10年の小作地率は54%に達した。同15年の戸数96・人口462。同22年稲野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387673
最終更新日:2009-03-01




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