ケータイ辞書JLogosロゴ 射添荘(中世)


兵庫県>村岡町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。七美郡のうち。弘安8年の但馬国大田文に「射添庄 二十六町六反三百四十分」とある。本家は七条院(藤原殖子)創建の歓喜寿院,領家は按察二位家。地頭は当荘を本貫とする武士で温泉荘公文も兼ねた射添弥三郎入道,公文は国御家人の斗麦太郎入道。荘田の内訳は仏神田9反余・地頭給5町5反・公文給4町5反・惣追捕使給5反・定田15町2反。その後,南北朝期には当荘領家職は勧修寺経顕が伝領し,観応2年正月14日付経顕処分状には「一,女房分 但馬国射添庄」と見えて,経顕から子息権右中弁経方の女に譲られたが,延文5年7月に経顕はこれを悔返して子息阿賀に処分し直している(勧修寺家文書遺言条々/宝塚市史4)。なお,寛正2年3月5日付治景・安景連署売渡状には因幡国岩井荘内田地の売主として「但馬国七美郡内いそう庄熊波入ゑ八郎左門」と当荘の住人の名が見えている(田中壮三所蔵文書/鳥取県史2)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387831
最終更新日:2009-03-01




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