ケータイ辞書JLogosロゴ 礒部荘(中世)


兵庫県>山東町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。朝来郡のうち。弘安8年の但馬国大田文に「礒部庄 五拾二町壱反二百五拾歩〈本所伊勢太神宮 領家地頭関東御領 給主若宮別当跡〉」とある。伊勢神宮領荘園で,領家職・地頭職は鎌倉幕府が掌握した。なお,千葉支流系図によれば,当荘は承久の乱の没官地で,千葉胤朝が幕府から拝領したともある(荘園志料上)。また,年未詳の荘々散状注文(兼仲卿記建治元年10月巻裏文書/鎌遺12091)に「礒部庄」,西市正資高書状(兼仲卿記建治元年11月巻裏文書/同前12140)に「被物庄々,生葉,富吉,礒部三ケ所」とあるのも,あるいは当荘を指すか。南北朝期には,北朝方の拠点となり,正平7年12月日付出石社氏神主長尾家景代長家軍忠状(出石神社文書/県神社誌下)によれば,正平6年11月,南朝方の堀河左衛門佐らは「磯部城」に押し寄せ,次いで但馬守護今川駿河守頼貞を攻撃したという。下って,応永2年3月には,竹田城主太田垣土佐守父子上洛の留守に乗じて,東軍の丹波国人長九郎左衛門尉・内藤孫四郎らの軍勢が「一品,粟鹿,礒部」に進入,これを迎撃した太田垣の同名新兵衛尉は楽音寺から当地に出陣したと伝える(応仁記/群書20)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387840
最終更新日:2009-03-01




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