ケータイ辞書JLogosロゴ 伊丹(中世)


兵庫県>伊丹市

 平安末期から見える地名。摂津国河辺郡のうち。「山槐記」治承4年11月23日条に東国の源氏蜂起に呼応した豊島郡住人義貞子某なる者が豊島の宅を焼いて近江に逃亡したため「伊多美武者所」が追捕に向かったとある。この伊多美武者所は当地を名字の地とする武士とみられ,当地名は平安期にさかのぼるものと推量される。地名の確実な初見は,嘉元元年9月15日付出雲国守等田地寄進状で,多田院の法花読経田に寄進された田地2反の在所を「在摂津国伊丹村」と記している(多田神社文書)。浄土寺門跡から勝尾寺に寄せられた橘御園年貢の内訳を載せた嘉元年間の浄土寺殿寄進米上日記によれば「八斗七升七合五夕代六百十文……伊丹村分」と見え,この伊丹村は橘御園の一部をなしたらしい(勝尾寺文書/鎌遺22062)。嘉暦4年2月には「伊丹村住人西道」なる者が橘御園安延名の所当米(年貢)を抑留している。この時,橘御園雑掌の訴えを受けた六波羅探題は西道を京都に連行するよう伊丹左衛門三郎(親盛)に命じている(金剛寺文書/伊丹中世史料)。伊丹氏は清和源氏の後裔とも関東御家人加藤景廉の子孫とも伝えるが,その嫡流は当地を本拠として森本・北河原・大路など近隣諸村の庶家を統率し,鎌倉末期から戦国期に至るまで活動した。伊丹親盛は正和4年に六波羅両使の一員として兵庫・一洲・渡辺など摂津国の諸関の実情調査をしたことも知られ(離宮八幡宮文書/鎌遺25571・25632),国内の有力御家人であった。南北朝期,建武3年8月には摂津国御家人伊丹野四郎頼員が東上する足利方の細川顕氏に属して京都の九条河原口以下で合戦している(北河原氏家蔵文書/伊丹中世史料)。観応の擾乱では伊丹左衛門四郎宗義が足利直義方に属しているが,伊丹一族はほぼ南北朝期を通じて北朝方にあって摂津・河内などを転戦,文和元年11月には「伊丹瓦(河原)」で南朝方と合戦,次いで翌2年正月には「伊丹城」を攻撃した南朝方を退けた(北河原森本文書/同前)。延文5年4月には惣領伊丹大和守以下一族は紀伊国高野山に出張,また康安2年8月の神崎合戦では摂津守護代箕浦次郎左衛門とともに和田・楠木氏らと戦っている(北河原氏家蔵文書・太平記巻38/同前)。室町期には伊丹氏は摂津本郡守護の細川管領家の家臣となって勢力を扶植(新撰菟玖波集作者部類/同前),文明10年には伊丹与三郎親時が春日社領武庫荘菖原名と生島内浜郷の年貢請負代官もつとめた(大乗院寺社雑事記文明10年3月3日条)。なお,応永20年7月25日付西院御影堂上葺料足算用状には「三貫六百文 伊丹番匠下行」と,伊丹番匠が東寺造営に招かれており,当地に大工集団が居住したことが知られよう(教王護国寺文書3)。永正4年の管領細川政元暗殺に始まる永正年間の錯乱では伊丹大和守元扶が細川高国を支援して台頭し,伊丹氏は摂津において池田氏・茨木氏らと並ぶ地位を得たが,同8年8月,反高国派の細川澄元軍が伊丹城を攻めたのをはじめ当地はたびたび合戦の舞台となった(細川両家記/群書20,実隆公記永正8年8月11日条)。この頃から城郭も整備され,民家も立ち並ぶようになったらしい。同17年正月,澄元方が敷いた越水城包囲陣に対して伊丹兵庫助国扶ら伊丹衆は中村口で奮戦,一方,伊丹同名但馬守・野間豊前守らの守備する伊丹城は陥落し,一時は澄元が入城したが,まもなく高国方の反撃で回復した(細川両家記/群書20,拾芥記/集覧24,仁和寺諸記抄/続群31下など)。次いで享禄2年8月,伊丹城は澄元子息細川晴元の将柳本賢治に包囲され,同年11月伊丹元扶以下が討死して落城,その後は晴元方の高畠甚九郎の居城となった。しかし,翌年6月から高国方の反攻が始まり,同4年2月には高国方と高畠の和議が成立,開城されている(細川両家記/群書20,赤松再興記/群書21)。また,天文2年には一向一揆衆の攻撃を受けた。天文15年頃から池田氏ら摂津国衆は細川晴元から離反し,三好長慶の下に結集し始めたが,伊丹親興は終始晴元方であったため,同18年正月頃から長慶の拠る越水城からたびたび軍兵が出て当地周辺に放火した。同年6月,江口合戦で晴元が没落すると,長慶は伊丹城攻略に着手,森本・垣富・前田城・御影塚・小屋城に布陣して攻防は越年したものの落城せず,翌19年3月には親興と和睦した(細川両家記/群書20)。なお,天文12年10月2日付道者売券に「一,いた見」と当地が見える(神宮文庫蔵輯古帳)。永禄11年9月の織田信長入京後も伊丹氏は勢力を保持し,池田・和田両氏とともに摂津三守護と称されたが(足利季世記/改訂史籍集覧13),天正2年11月,信長の命を受けた荒木村重の前に伊丹城を開け渡し没落した(永禄以来年代記/続群29下,異本年代記/伊丹中世史料)。荒木村重は伊丹城を有岡城と改称,当地は摂津一国の政治・軍事上の拠点となり,有岡城を中心に侍町・町場を擁する城下町の体裁が整えられ,これを囲む総構(外構)も構築されて,のちの伊丹郷町の原型が成立した。光明寺・万徳寺・墨染寺・行善寺・正善寺・大蓮寺などもこの頃創建されたという(伊丹市史2)。同6年秋の村重反逆に端を発する織田信長の伊丹攻略の有様は,大和興福寺の「多聞院日記」同年12月10日条にも「昨暁摂州アリ岡本城ヘ入損,人数以外損了」とあるなど諸書に詳しいが,1年にわたる包囲戦の末に落城,池田之助の居城となった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387853
最終更新日:2009-03-01




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