ケータイ辞書JLogosロゴ 伊丹郷町(近世)


兵庫県>伊丹市

 江戸期の町名。川辺郡のうち。伊丹村を中心に,大広寺・北少路・昆陽口【こやぐち】・北中少路・南中少路・円正寺・外城【とじよう】・高畑・新野田・古野田・植松・下市場・上外崎【かみとざき】・外崎の15か村が一続きになってできた在郷町。単に伊丹町,また有岡荘などとも呼ばれる。天正年間荒木村重が有岡城主であった時代に急速に発展した。はじめ幕府領で,寛文元年にうち10か村が近衛家領となった。一時4か村に減ったが,正徳元年からは12か村が近衛家領となり,明治に至った。残り3か村は武蔵国忍藩領,のち幕府領。ほかに相模国小田原藩・武蔵国川越藩・上野国高崎藩領となった村々があるが,いずれも短期間であった。高は「摂津高改帳」1,890石余。戸数・人口は,享和3年3,000・9,000,天保7年2,500・1万(いずれも概数)。鎮守は北少路村の野宮。野田・植松村などには別に産土神があった。寺院は本泉寺・法巌寺・金剛院など10か寺以上を数える。大坂と有馬を結ぶ街道筋に位置し,元和3年宿駅に指定された。江戸積酒造業で栄えた町で,いわゆる「丹醸」は大いにもてはやされた。天保3年の酒造家85人,株高は合わせて10万7,000石に達した。江戸入津樽数でみると,享保15年〜宝暦5年および寛政9〜12年がおおむね17万樽以上,文化元年〜文政2年には20万樽以上を記録した。しかし,幕末に至ると,灘の酒造業に圧倒され,有力酒造家が相次いで没落していった。油屋(上島)勘四郎・稲寺屋治郎三郎・薬屋(筒井・小西)新右衛門・紙屋(八尾)八左衛門・津国屋(坂上)勘三郎ら財力豊かな酒造家の中から選ばれた惣宿老が町政を担当し,また全国の大名に大名貸を行った。北の飛鳥井【あすかい】とその南の運正下,東側の内台【うちんだい】と西側の西台【にしんだい】には田畑が広がっていた。用水としては猪名川から取水した加茂井と飛鳥井,猪名川支流の藻川から取水した猪名寺井,文禄年間大鹿村地内に造られた奥谷(伊丹)池の用水が使われた。伊丹には大工組があり,安政2年の禁裏御所の造営にも加わった。元和元年の大工数は55人であった。元禄元・12・15年などには繰り返し大火があり,享保・天保の飢饉には餓死者も出た。天保9年近衛家が町内昆陽口村に設置した郷校明倫堂には上野国沼田出身の勤王家橋本香坡が教頭として招かれ,安政4年そのあとを継いだ金本摩斎とともに多くの子弟を教育し,伊丹とその近辺の村々の近代教育の基を開いた。ほかに修竹館・蓼生園の2つの寺子屋があった。酒造家を中心として俳諧が流行し,特に延宝2年池田宗旦が伊丹に来住して俳諧塾也雲軒を開いてから豪放な伊丹風俳諧が栄えた。その中から出た上島鬼貫は貞享2年26歳で「誠の外に俳諧なし」の悟りを得,元文3年大坂に没するまで数々の秀句を生み出し,「東の芭蕉,西の鬼貫」と併称される。ほかにも森本蟻道・山本東瓦・梶曲阜らが輩出したが,いずれも酒造家かその一族である。曲阜は「有岡古続語」を著すなど郷土史家としても活躍した。和歌・連歌にも活躍した人が多い。また,酒の香りに引かれて頼山陽・田能村竹田や飛騨の名工谷口与鹿,勤王家の藤本鉄石(天誅組総宰)ら文人墨客も多く訪れ,さながら一大文学サロンの様相を呈した。野宮の祭礼は,元禄15年上島青人が神輿を奉納してから盛んとなり,猪名寺村(尼崎市)への巡行には各町内から工夫を凝らした引き出物などが参加し,年々華美になっていった。嘉永2年に刷物になった「有岡八景」には,城山の秋月,破戦道の帰帆,西台の夕照などが景勝として取り上げられている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387855
最終更新日:2009-03-01




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