ケータイ辞書JLogosロゴ 伊津(中世)


兵庫県>御津町

 室町期から見える地名。播磨国揖西【いつさい】郡岩見荘のうち。「兵庫北関入船納帳」によると,文安2年7月2日から12月9日にかけて,伊津の船頭衛門三郎の持船が,米・小麦・小鰯・豆・塩などを積んで兵庫津の問丸衛門九郎方へ6艘入津している。当時は農耕のほか,伊津浦において漁業とともに海運業も営まれていたことがわかる。同年7月2日の入津が初めて記されているのは次の理由によるものと思われる。文安元年赤松満政は赤松家の存続に危機感を抱き,一族を率いて播磨に出奔,幕府はこれを山名持豊に命じ追討させ播磨各地で戦乱があった。播磨広峰社の社司が「文安元年ハ国中乱レ候テ皆無,二年ノ春ノ分ハ納マラズ,秋ノ分ダケ二十五貫納マル」と記している(広峰神社記録)。文安2年春の年貢未納は,持豊が播磨西部の防備を固め海岸線を封鎖したものと推測される。なお,建武3年2月新田義貞と戦って敗れた足利尊氏が九州へ敗走する途中,伊津浦で持明院統光厳上皇の綸旨を待ったといわれる。室町末期に小松原盛忠が伊津城を構築し海岸の警衛に当たったという(探訪日本の城)。「播州英城日記」によれば,天正元年正月5日改回分知に伊津212石余南川徳左衛門と見え,英賀城三木氏によって支配されていた。文禄3年6月5日の小出吉政知行目録には伊津村と見え,片村・黒崎村・庄内村とともに612石余とあり,この時期には竜野城主小出吉政の支配下にあった(金井文書/竜野市史5)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7387943
最終更新日:2009-03-01




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