ケータイ辞書JLogosロゴ 揖保荘(中世)


兵庫県>龍野市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。播磨国揖西【いつさい】郡のうち。文治2年6月9日,建春門院平滋子の発願で建立された最勝光院領であったが,滋子没後は平家没官領の1つとして武士の押領を受けてきた。そのため後白河法皇は源頼朝に対し,挊(揖)保・桑原五カ荘・上蝙・東這田荘の返還を命じた(吾妻鏡)。後白河法皇の管理下におかれていたが,丹後局(高階栄子)の所領とされたらしく,建久3年3月の後白河法皇院庁下文案に「揖保桑原保〈最勝光院領〉」と見える(大徳寺文書/鎌遺584)。当荘は鎌倉期には上揖保荘・下揖保荘に二分されていた。上揖保荘は,正中2年3月日の最勝光院領荘園目録案に「上揖保十五石」と見え,領家は刑部少輔入道で,年貢は15貫文のところ弘安8年に8貫文が納められたのみであった(宮内庁書陵部所蔵文書/竜野市史4)。沙弥昌俊は永和2年10月27日に上揖保荘内の伊勢方一分地頭職のうちにある四日市庭の屋敷畠を大徳寺に3貫文で売り渡している(大徳寺文書7/大日古)。また,小宅荘出身の宗琳という僧が正長元年10月11日に自分の建立した上揖保荘祥雲庵(花蔵坊領内,1反20代)を祥雲庵納所分注文を添えて大徳寺塔頭如意庵に末寺として寄進している(同前5/同前)。「親元日記」文明5年10月19日条に「御領所播州上揖保事」として「御代官東郷帯刀之様有成敗者,可有御悦喜之由」とあり,上揖保荘は室町幕府の御料所となっていた(続大成)。下揖保荘については,正中2年3月日の最勝光院領荘園目録案に「下揖保十五石」と見え,領家は冷泉頼成で,年貢15貫文のうち12貫文が弁済されている(宮内庁書陵部所蔵文書/竜野市史4)。下って,長禄3年6月26日の宗恂下揖保荘領家方代官職請文によれば,下揖保荘の領家職は山科家が有し,領家方年貢は京着で100貫文であった(山科家古文書/同前)。弘安6年8月日の沙弥行照下揖保荘地頭方文書紛失状によれば,地頭職は関東御家人の高鼻和左衛門尉有景であったが,その後息女越後局が相伝し,越後局が島津忠綱(忠久の弟で越前守護代)に嫁して生んだ子である忠行が相続した。忠行は弘安2年7月に母越後局から下揖保荘地頭職を譲られて播磨に移住し,天文3年の朝日山合戦(赤松氏と浦上氏の争い,島津氏は赤松氏に属す)で討死した忠長に至るまで続いた(越前島津文書/同前)。忠行のあと子行景と忠幹との間で相続争いが起こり,裁判が行われる間,弘安5年11月24日に六波羅探題の引付頭人二階堂行照の宿所に夜盗が乱入して下揖保荘地頭方文書4通が紛失した。行景は正応4年12月7日に鎌倉将軍家政所下文で下揖保荘半分地頭職を安堵されているから,裁判の結果は兄弟で折半されたと思われる。忠幹の子忠藤は,元弘3年11月8日に後醍醐天皇綸旨で下揖保東方地頭職を安堵されている。また,領家の山科教行には延文2年12月5日に後光厳天皇綸旨で伊勢神宮役夫工米を免除している(同前)。領家方の史料として「教言卿記」「言国卿記」「山科家礼記」「言継卿記」に頻出する。文明2年に守護代赤松政秀は揖保荘に半済を課して紛争を起こし,同12年にも下揖保荘半済分を横領したとして山科家雑掌から訴えられている(山科家礼記/纂集)。その後,山科家は,延徳3年年貢未進を理由に島津小三郎の代官職をとりあげ,下揖保荘を二分して赤松政秀を半分代官職とした。残り半分は顕順坊維照を代官とするなどの手段をとって年貢納入を計っている(同前)。しかし,「言継卿記」永禄10年10月15日条に「播州下揖保領家方之事 近年宇野越前守(赤松政秀)舎弟押領之事」とあるように,領家方は押領によって実態を失っていった。なお,上揖保荘の鎮守は日山の粒坐天照神社,下揖保荘域の鎮守は揖保上の夜比良神社である。また「峰相記」には正和年間に上揖保に福光寺,下揖保に安養寺が建てられたと記されている(続群28上)。中世まで揖保川の流路が現在よりも東を流れ(小宅荘荘園絵図),中臣山の東を南下し東の浦上荘との境を流れていたと考えられるので,揖保川右岸に成立したものと思われる。北部の上揖保荘は江戸期の竜野町・日山村・小神村・日飼村・四箇村・大道村(以上龍野市域),半田村(揖保川町域)で,南部の下揖保荘は揖保上村・揖保中村・今市村(以上龍野市域),野田村・新在家村・正条村(以上揖保川町域)にあたる南北に細長い荘域であった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388075
最終更新日:2009-03-01




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