ケータイ辞書JLogosロゴ 印南新村新田(近世)


兵庫県>稲美町

 江戸期〜明治22年の村名。播磨国加古郡のうち。ただし,明治初年からは単に印南新村と称する。印南野開発最後の新田で,正徳2年開村。姫路藩領。印南組(1村1大庄屋)。村高は,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,206石余。領主主導型の新田開発ではなく,領外資本による町人請負新田であるのが特色。加古新村と並び1,000石を超える大新開であるが,先進集落との水利争いを経つつ新池新溝を築くが,稲作は耕地面積の2%にすぎない。文化元年の作付率は稲4%・豆類70%・煙草12%という。貢租については定納130石,免率にして1ツ7厘を願い出た宝暦7年の文書がある(稲美町史)。元文2年の家数195・人数990,文化2年の人数1,214,慶応4年は人数1,528。なお,当村には明石藩領の3か村を含め近村16か村81軒が出作。鎮守は住吉神社,正徳2年泉州堺の住吉大明神を勧請し字道狐山に祀ったが,嘉永2年現在地に遷し,字道狐山には稲魂神社を祀る。寺院に臨済宗印南寺と真宗信光寺。字南場の境界に切止地蔵,字上場の藩境に梅ノ木地蔵がある。梅ノ木とは埋退【うめのき】のことで,寛文6年姫路・明石両藩の境界論争の結果,境として檜割木,白馬の毛,大麦3升,米糠3升を埋め,塚を築いて双方立ち退いた。それよりここを埋退塚と称した(同前)。元文2年の明細帳には「印南新村明細帳」と記される。明治13年村の疲弊救済策として内務省に働きかけ播州葡萄園を設置,同20年には収穫200貫,葡萄酒4石を産した。明治14年の戸数291・人口1,397(播磨国地種便覧)。綿作は全国五大産地といわれた播磨の中心加古郡の,特に畑作地帯である当地に盛行,村では全耕地の13%で綿を栽培したが,同20年頃外国綿に押され生産は絶滅した。同22年母里【もり】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388232
最終更新日:2009-03-01




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