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「魚」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 




加古川河口部右岸...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7388291]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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魚梁瀬村(近世)

 江戸期~明治22年の村名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚釣島【うおつりじま】
石垣島の北北西海上約140kmにある無人島...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

魚沼郡
郡内の村数と総石高は,「正保国絵図」6万107石余,「元禄郷帳」580村・8万827石余,「天保郷帳」409村・10万305石余,「旧高旧領」421村・10万2,341石余...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚見村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚町【うおまち】
(近世~近代)江戸期~昭和39年の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

魚屋町【うおやまち】
(近世~近代)江戸期~現在の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

魚町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名江戸期は甲府城下下府中(新府中)23町の1町甲府築城にともなう新城下町造営により成立町人地城下の東南に位置し,三ノ濠で囲まれた郭内にある町名の由来は武田氏の時代肴の市を立てた所であったことによる(甲府略志)北は横近習町,南は桶屋町に接する南北の町並みで,山田町・八日町・三日町・下連雀町と交差する1~5丁目からなり,町の広さは東側154間・西側150間余(国志)甲州街道柳町宿へ伝馬役を勤める定助9町の1町で,年間の出役基準は31人・15疋半戸口は,寛文10年521人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年61戸,うち1丁目11・2丁目15・3丁目10・4丁目11・5丁目14(上下府中間別/同前),享保5年451人(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年419人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年67戸・316人,うち男159・女157(国志),天保7年67戸・303人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)元禄7年,甲府と江戸の間を往復する江戸三度飛脚が設置され,2丁目に飛脚宿が置かれた江戸後期には3丁目に火の見櫓があった貞享3年の町中諸問屋改帳(甲州文庫史料3)によると茶問屋2・肴問屋2が見え,また元禄期には造酒屋4人がいた江戸後期には肴問屋4人をはじめ仲買人が多く,「裏見寒話」にも「魚商多く住居す」と見える穀仲買人は寛延3年穀町である柳町3丁目組合に属する2人と三日町1丁目組合に属する4人がいたそのほか主だった商人は煙草仲買4・糀屋4や篠巻商・両替商・質屋など享和3年4月柳町から発した大火で67戸を類焼,嘉永7年3月にも同じ柳町からの出火で26戸を類焼し(町年寄御用日記),同年11月の大地震では潰家30戸を生じるなど災害が相次いだ(甲州文庫史料1)私塾に文化5年開設の篤斉書屋があり,明治4年の教師男3・女1,生徒男160・女120であったが同7年廃業明治3年の戸数70,うち家持57・借家13(甲府町方家数人数取調書)同17年甲府総町戸長役場,同20年から甲府錦町外三十六ケ町戸長役場の管轄区域に入る同22年甲府市に所属明治15年町内に製糸工場3か所があった(県治綜覧表)当時の商業の発展にともない同25年同町2丁目に甲府魚市場が創立されて毎日開場,静岡・神奈川・東京・新潟方面からの鮮魚・海産物が取り引きされ,町内にこれらを扱う問屋が集中した同22年の戸数84・人口500,大正9年の世帯数117・人口698昭和前期には製糸工場・水晶工場のほか諸会社の設立がみられた昭和20年の空襲で155世帯のうち90世帯全焼・死者10の被害をうけている(甲府空襲の記録)同26年の世帯数99・人口463同39年中央1~5丁目の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚屋町(近世~近代)
江戸期~現在の町名唐津【からつ】城下の1町町田川の右岸,城下町の東部に位置し,西は町田川の札ノ辻橋を隔てて木綿町,東は大石町と接する唐津築城時の総町十二か町の1町で外町のうち外町の西端に位置し札ノ辻橋を境として内町と分けられる町人地町名の由来は当町に魚屋が集住させられたことによる昭和初期まで「うおんまち」と通称当町の魚屋は藩からは特別の保護を受け,免札(商売札)なしに無運上で営業を許可された(唐津市史)文化年間頃の町筋は東西1町18間,古来本軒58,当時人数240(男123・女117),引合五人組69人(うち大町年寄1・町年寄2・組頭2・御酒屋1・酒屋1・御用肴屋2・御用献上物掛り1・糀屋2・呉服屋1),当時の御用献上物掛御用達は惣兵衛で町年寄並,御用肴屋は清兵衛と藤右衛門(松浦拾風土記)幕末の御用肴屋では肴屋佐々木家・小林家・井上家が著名北に隣接する材木町の北側に船着場があったため,船持・船問屋・船宿も多かった木屋山内家は豊臣秀吉の名護屋築城時に資材運搬の大船頭として泉州堺から唐津大石町に移住し,のち当町に居を構えた江戸初期は海運業に従事したが,のち酒造業に転業慶長元年のキリスト教26聖人の唐津宿舎は木屋との説がある弘化2年当町の曳山「鯛」は5番曳山として製作された幕末から明治期にかけて大商人が移住し唐津随一の商業地となる明治元年の軒数70・人口230(唐津市史)同3年当町の小林清蔵・吉次郎は肴屋,加藤正平は油屋と鬢付屋の,それぞれ株仲間筆頭であった(正円寺文書/唐津市史)藩領最後の町大年寄は山内小兵衛,町年寄は草場恒助・古橋与次兵衛(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)「明治11年戸口帳」では唐津町のうちに「魚屋町」と見え,戸数59・人口237明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち明治30年の人口421(唐津市史)同年の長者番付の過半は当町商人が占め,町税の3分の1は当町が負担していた当時当町に店舗を持たないものは一流の唐津商人とされない風潮があった同31年唐津駅ができ大正末期にかけて物資の流れが町田川河岸から駅に移り,当町は衰微していった大正5年当町の草場猪之吉らは博多と唐津を結ぶ北九州軽便鉄道株式会社を設立し,本社を当町南端町田川河岸に設置同12年鉄道開通とともに本社を東唐津に移転し,その社屋には唐津日日新聞社が大名小路から移転し,のち佐賀新聞社唐津支社となる現在は明治初期の大商人の家並を残す閑静な町大正4年の戸数58・人口265世帯数・人口は,大正14年35・257,昭和5年37・214,同35年110・428,同41年94・354...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚津町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚住荘(中世)
 鎌倉期~室町期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

魚町【うおまち】
(近世~近代)江戸期~現在の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

西暦2024年(平成36年)
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リースバック(住宅)の注意点
┗リースバックとは、自宅不動産を事業者に売却して即資金化しつつ

自筆証書遺言書保管制度
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