ケータイ辞書JLogosロゴ 打出(中世)


兵庫県>芦屋市

 鎌倉期から見える地名。摂津国兎原郡のうち。正和4年11月日付兵庫関悪党交名注進状案に「後藤右衛門尉〈打出〉」とあり,鎌倉末期に当地を本拠とする悪党後藤右衛門尉以下が兵庫関に乱入したことが知られる(東大寺文書5/大日古)。当地は交通の要衝を占めて軍事上の要地にも当たるため,古来,多くの合戦が行われた。南北朝期には建武3年2月,後醍醐政権に反旗を翻した足利尊氏が丹波から兵庫に進出,同月10日,新田・楠木・北畠らと当地で戦った。この合戦は建武3年9月日付狭間政直軍忠状に「一,二月十日,打出合戦尽忠訖」(狭間文書/南北朝遺756),同4年3月日付志賀頼房軍忠状に「一,経丹波路,到兵庫島,二月十日・十一日,摂津国打出・豊島・上山合戦……致鎮西御下向御共畢」(志賀文書/同前905)など当時の多くの文書に見え,「梅松論」「太平記」などにも叙述されている。ついで,観応年間には足利尊氏と弟直義が不和となり,一旦,播磨に走った尊氏軍は当地で直義軍と対峙,観応2年7月日付松浦秀軍忠状に「将又兵庫入御,二月十七日打出合戦」(松浦文書/大日料6‐13),同年3月2日付伊丹宗義軍忠状には「同正月十六日自御上洛以来,丹波播磨両国抽忠節,同二月十七日,於摂津打出浜致合戦忠節畢」とある(北河原森本文書/同前6‐14)など,観応2年2月17日に合戦となった。下って,戦国期には村名をもって呼ばれるようになり,しばしば西宮郷などと山林相論を起こしている。「忠富王記」明応7年7月1日条に「□(西)宮与打出村之事,□国人伊丹兵庫助依調法,去月廿七日属無為」とあるのをはじめとして(宮内庁書陵部所蔵白川家本/西宮市史4),天文年間には芦屋村と共同で西宮郷・本荘による持山の押領を三好長慶に訴え,逃散するなどの抵抗を行ったという(新修芦屋市史)。当時,打出村は芦屋荘に属していたものと推測される。なお,「古今著聞集」巻11書画第16によれば絵師大輔法眼賢慶の弟子某の住所を「摂津国宇出庄」とするが,同荘を当地に比定する説もある(荘園志料上)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388370
最終更新日:2009-03-01




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