ケータイ辞書JLogosロゴ 打出村(近世)


兵庫県>芦屋市

 江戸期〜明治22年の村名。兎原郡のうち。「五畿内志」に見える「属邑一」は,延宝8年にできた岩ケ平新田を指す(芦屋市役所蔵絵図)。はじめ幕府領,元和3年尼崎藩領,明和6年からは再び幕府領。村高は,「摂津高改帳」548石余,青山氏領地調(加藤家文書)674石余,「天保郷帳」945石余,「旧高旧領」951石余。青山氏領知調によれば,寛文9年頃の家数89・人数638。文化2年の家数161と倍増(新修芦屋市史)。村高も青山氏治世下で新田開発が盛行して増加した。寺院は浄土宗親王寺・一向宗照善寺・同宗明覚寺。氏神は打出天神社,岩ケ平新田にも天神社がある。延享4年芦屋村と入会持の芦屋山帰属に関する山論が,両村と本庄9か村(現神戸市)・西宮社家郷6か村(現西宮市)との間に発生したが,先例に任せた裁許によって芦屋・打出の両村が勝訴した。文化2年幕府天文方役人の西国海道筋と海浜の測量が実施され,海道筋の当村では入用銀43匁余を負担した(小阪家文書/新修芦屋市史)。文政7年の御廟詮議(山口県立山口文書館所蔵文書)によると,萩藩主毛利氏が廟所の修繕維持に努めている。幕末の文久3年摂海防備のための打出陣屋が萩藩によって設置された。明治22年精道村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388371
最終更新日:2009-03-01




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