ケータイ辞書JLogosロゴ 兎束荘(中世)


兵庫県>村岡町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。七美郡のうち。「たちまの国うつかの庄」と訓まれた(社家記録5裏文書/八坂神社記録2)。また,「宇塚」とも書く(祇園社記続録10/鎌遺17026)。小代荘と併せて,兎束小代荘ともいう。皇室領(長講堂領)荘園。建久2年の長講堂所領注文に「菟東(束)小代庄」とあり,寺役以下を勤仕している(島田文書/同前556)。鎌倉期には日吉社の八講米料所ともなった(兼仲卿記裏文書/同前17040)。弘安8年の但馬国大田文には「菟束庄 五拾二町壱反半三十八分」と見える。田地の内訳は流失8町3反余・仏神田4町8反余・人給4町4反余・定田34町3反余。領家は宰相法印,下司は国御家人の菟束左衛門入道道恵であった。下って,応永14年3月日付長講堂領目録にも「同(但馬)国菟束小代庄〈菟束方光照院殿,小代方鷹司殿〉」とあり,長講堂には修二会の壇供を上納している(八代恒治氏所蔵文書/大日料7‐8)。文明18年5月には山名氏被官の国人太田垣氏の一族太田垣時久が「但州七美郡菟束庄延助名之内下地」を但馬妙見に寄進している。応仁の乱以後には守護との間で半済が行われており,長享2年10月には「菟束庄半済分作山新田之内五斗成」が同じく但馬妙見に寄進された(日光院文書/大日料8‐19・26)。なお,現在,岩手県正法寺と山口県瑠璃光寺に伝わる「正法眼蔵」の古写本には,正慶2年「長州菟束庄」で比丘通源なる者が書写した旨の記録が見える(正法眼蔵解説/古典大系)。永禄から天正年間,兎塚荘在郷一揆集団を結成,中山城の八木家職の残党とその輩下が小代一揆等と結んで天正8年小代城に立て籠り秀吉軍に反抗したという。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388388
最終更新日:2009-03-01




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