ケータイ辞書JLogosロゴ 浦上荘(中世)


兵庫県>龍野市

 平安末期〜戦国期に見える荘園名。播磨国揖西【いつさい】郡のうち。仁安2年閏7月日の鴨御祖社神主等解に「浦上庄官等無法致相論之時」と見え,隣接する賀茂社領の室三箇御厨との間で境界相論を起こしている(陽明文庫所蔵兵範記仁安三年三月巻裏文書/平遺3431)。その後,養和元年12月8日の後白河院庁下文案によれば,新熊野社領28か荘の1つとなった(新熊野神社文書/同前4013)。源頼朝は地頭に梶原景時を任命したが,朝廷からその停止を求められ,文治5年に地頭職を荘家に返付した(吾妻鏡文治5年3月13日条)。建久2年5月19日の西大寺所領荘園注文によると,西大寺は越部・浦上の2郷に水田2町7反4歩を所有している(西大寺文書/鎌遺534)。後醍醐天皇は元弘3年12月1日に浦上荘地頭職を下総国葛西御厨のかわりに大徳寺に寄進したが,地頭職の3分の1,熊代・山下部両村の地頭職を長井弾正蔵人貞頼にも与えてしまったので,翌年正月19日には浦上荘の栄・山下部・熊代などの村は大徳寺の管領であることを認める綸旨を宗峰妙超(大灯国師)あてに出し,さらに同年7月28日長井貞頼に与えられた綸旨は召し返し,もとのように大徳寺が知行する旨の綸旨を出している(大徳寺文書1/大日古)。大徳寺開山の大灯国師は浦上荘の浦上一国の子として現在の宝林寺(揖保町門前)で生まれた。母は赤松円心の姉といわれ,花園上皇より興禅大灯国師の号を賜り,後醍醐天皇も大徳寺を本朝無双の禅苑と称揚して南禅寺と並んで五山の第1位とする優遇を与えた。こうして浦上荘地頭職と栄・山下部・熊代の上3か村の領家職を得た大徳寺は,建武元年8月21日官宣旨により下4か村の領家職をも得て一円を寺領化したものと思われる(同前)。しかし,浦上荘の半分4か村の地頭職は浦上為景に与えられたものの,為景は浦上荘を自分1人で知行し寺家と敵対する始末で,綸旨は召し返され,同年9月16日下4か村の地頭職は寺家の計らいで一族に配布すべきよう綸旨が出されている(同前)。現在大徳寺に伝えられている古文書の中にはこれ以降の浦上荘に関する資料はほとんどなく,事実上浦上氏の支配地となり,大徳寺領として機能していなかったと思われる。ただ,永和2年12月日の小宅荘三職方内検年貢目録に除田として「三町 浦上方」が記載されている(大徳寺文書2/大日古)。その後,天文13年5月7日の将軍足利義晴御教書に「当社領播州浦上荘内湯米分事」とあり,新熊野神社領になっていたらしいが「近年有名無実云々」とあるように武家による押領を受けていた(新熊野神社文書/竜野市史4)。荘域は江戸期の真砂・栄・門前・萩原・中陣・山下・西構・東用・吉田などの諸村に比定される(竜野志)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388456
最終更新日:2009-03-01




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