ケータイ辞書JLogosロゴ 江井島(中世)


兵庫県>明石市

 鎌倉期から見える地名。播磨国明石郡のうち。営島・エイカ島・栄島とも書き,また江井崎ともいう。鎌倉期に成立した「源平盛衰記」巻7には備前児島に流罪となった藤原成親の通過地点の1つに「えい崎」が見える(有朋堂文庫)。鎌倉末期〜南北朝期と考えられる年未詳正月20日の東大寺衆徒衆議披露状に「播磨国営崎商人」らが東大寺領の「摂津国経島関所」(兵庫関)で狼藉を働いていることが見える(東大寺文書/神戸市史資料1)。これは,同時期と考えられる年未詳後2月13日および4月15日の東大寺衆徒衆議披露状案によると住吉社神主津守国冬の策動によるものであり,江井崎商人たちは東大寺手向山八幡社から兵庫へ派遣されていた神人らと刃傷に及び,関所に押し寄せて幕を切り関所の家屋を破壊した上で銭貨を奪取している(同前)。14世紀前半の流通経済の発展のなかで,兵庫関における船舶からの徴税が流通の阻害要因の最たるものになってきており,津守国冬は住吉社領であり兵庫関での徴税の損害を被りやすかった江井崎の商人らに命じて徴税抵抗運動を行わせたのであろう。また,貞和3年6月24日広峰社社家の1人刑部守延は息女に対し,自らの坊舎2宇とともに「エイカ島」を含む広峰参詣旦那職を譲っており,江井島は広峰社の信仰圏内にあった(広峰文書)。室町期の文安2年9月9日〜11月26日まで江井島船籍の船が,いずれも五郎(左)衛門を船頭として7回,東大寺領兵庫北関を通関している(兵庫北関入船納帳)。船荷の内容から推して50石程度の小型船であり枝船を伴っていた。特に,同年9月12日の入関記事に「住吉神事米船半分役人取事先例也」との注が見えることから,江井島船は住吉社神事用の米を運送していたと推察される(同前)。長享2年4月10日,蔭涼軒に対して「エイ島ヨリ柴ヲ年貢ニ納」めることが定められており,その数量は「毎日三十束納之,一年三千六百束云々」であった。なお,これは播磨守護の寄進であったという(蔭涼軒日録3/大日本仏教全書)。下って天文6年4月5日に江井島住人教観は西国巡礼に旅立ち,大部荘浄土寺に落書を残している(明石市史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388483
最終更新日:2009-03-01




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