榎列村(中世)
鎌倉期〜南北朝期に見える村名。三原郡のうち。榎並とも書く。榎列郷ともいう。元久2年4月の淡路国司庁宣に淡路一二宮法華桜両会舞楽料田に充てるため「榎列并西神代之荒野」の開発が命じられている(護国寺文書)。これは貞応2年の淡路国大田文に三原郡上田保のうちとして「榎烈村」とあるものに当たり,「和名抄」榎列郷の解体過程で国衙領のなかに成立した行政区域として上田保が現われ,同保中に中世村落の榎列村が成立したのであろう。鎌倉期〜南北朝期には守護領であり,延元元年3月8日付左少将藤原某田地寄進状には「件田地者,淡路国守護領榎並郷内也」として「榎並郷地頭方」の田2町が播磨太山寺に寄進されている(太山寺文書)。下って戦国期の永正15年3月28日付伊勢御師道者売券に「淡路之国之中……ゑなみ一円」が見える(来田文書/大日料9-8)。南淡町諭鶴羽神社境内にある戦国期の善光寺如来板碑に榎列権助太夫の名が見えるが(県神社誌),権助太夫とは江戸期元禄5年頃まで大榎並村庄屋代々の名のりである。なお,天正14年11月3日付淡路国御蔵入目録(脇坂文書)に「一,八百七拾九石 ゑなみ・こくか」と記され,脇坂安治を代官とする豊臣家蔵入地となった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388511
最終更新日:2009-03-01