ケータイ辞書JLogosロゴ 大内荘(中世)


兵庫県>豊岡市

鎌倉期〜戦国期に見える荘園名但馬国出石【いずし】郡のうち建久9年9月日付但馬国司庁宣(仁和寺文書/鎌遺999)に仁和寺御室御領3か所として「禾賀庄 新井庄 大内庄」とあり,大嘗会用途の賦課が免除されている弘安8年の但馬国大田文には「大内庄 六拾町弐反百八拾分公文金覚注文定〈法金剛院領 領家真言院僧正 預所佐渡入道禅海 下司香住孫太郎入道浄阿御家人〉」とある本家は待賢門院(藤原璋子,鳥羽中宮)御願の法金剛院で,皇室領荘園荘田の内訳は公文の報告では流失2町余・仏神田1町5反・人給3町2反・定田53町5反余とあるが,下司香住浄阿の報告では定田90町・新田20町のほかに浄阿の開発した奥野村新田30町があり,惣田数149町,奥野村新田は預所に押領されていたという下司香住浄阿は現在の豊岡市香住が本拠ともいわれる下って,天文2年11月8日付法金剛院所領并末寺目録写(法金剛院文書/新編一宮市史資料編6)にも「但馬国 大内庄〈田六十町二段百八十歩,畠十五町三段百廿歩〉」と記す当荘は古代の「和名抄」出石郡安美郷の一部が独立したものであるが,正確な比定地は不詳「今神美【かみよし】村大字香住【かすみ】(豊岡市香住)なるべし」とする説(地名辞書),あるいは小字大内・大内越・大内谷の地名から森尾村(豊岡市森尾)とする説(校補但馬考)などがあるしかし,「新開奥野村」は江戸期の奥野村(豊岡市奥野)とほとんど同地域と考えられ,奥野地区を含む穴見谷中の地域であろう
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388613
最終更新日:2009-03-01




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