ケータイ辞書JLogosロゴ 大河内荘(中世)


兵庫県>大河内町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。播磨国神西郡のうち。正中2年11月25日の承鎮法親王附属状に法性寺東北院領として「播磨国大河内庄」と見える(三千院文書/岐阜県史史料編古代・中世4)。同文書は,承鎮法親王が梶井門跡領の寺院・寺領などを後醍醐天皇の皇子尊雲法親王(護良親王)に付属したものである。次いで南北朝期には,「賢俊日記」文和4年5月2日条裏書に「朝秀,就山田庄并小宅大河内等事,下遣播州」と見え,この時には当荘は醍醐寺領となっていた(醍醐寺文書/新編一宮市史資料編6)。年月日未詳の醍醐寺領知行・不知行目録には「御方人々押領処々」の1つとして「播磨大河内庄〈守護押之〉三百石」と見え,当荘は播磨守護によって押領されていた(醍醐寺文書/富山県史史料編)。また,正平7年2月12日の佐渡基景軍忠状によれば,同6年12月29日当地で合戦が行われている(後藤文書/大日料6-15)。下って,「蔭涼軒日録」長享2年8月5日条に「斎前於播州討取敵方頸注文,自屋形到来,去月十九日於大河内討捕頸十」と見え,赤松政則は旧領を回復しようとし,同年7月19日の当地の合戦で山名勢の首級10個を得た(大日本仏教全書)。なお,大河内町比延に鎮座する文安3年12月吉日の年紀を有する日吉神社縁起写に「大河内庄十五ケ村 弐百三十八軒」とある。また,「文安三丙寅年十二月十五日」と墨書された釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩の懸仏が,息災延命を祈願して大河内荘山王宮に小田原左衛門を願主として奉献されている(神崎郡誌)。江戸期には,現在の大河内町のうち寺前以北の地域を大河内荘と称した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388655
最終更新日:2009-03-01




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