ケータイ辞書JLogosロゴ 大沢荘(中世)


兵庫県>篠山市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。多紀郡のうち。承久4年4月18日の年紀を有する能福寺蔵大般若経奥書(巻235)に「執筆大沢御庄石二門村良鑒大徳」と見え(昭和現存天台書籍綜合目録上),これは当荘のことか。嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録に智恵光院領として「丹波国大沢庄」が見え,当荘は平安末期から鎌倉初期にかけて鳥羽天皇皇女の八条院領となった(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22661)。その後春華門院に譲られたが,承久の乱で幕府に接収され,ついで守貞親王に返されて以後は大覚寺統に伝領された。南北朝期以降の伝領経過は未詳である。文永4年12月6日の関東下知状案に「可早為左近中将基盛朝臣沙汰丹波国大沢庄預所地頭職事」と見え,当荘の預所地頭職が持明院基盛に安堵されている(持明院家文書/松雲公将集遺編類纂)。その後,当荘内の石前・宇土両村は,建武3年11月1日基盛の娘近衛局に安堵され,さらに近衛局の息持明院行雅,その息基清に伝領されたが,観応2年から荻野尾張守朝忠に押領されていた(同前)。応永31年12月23日「大沢庄内少八田(小畑)村」は岩蔵寺領で,田数12町5反25代分の篠村八幡宮段銭10貫40文が納められ,文安2年9月24日にも同村から役夫工米を納めている(大覚寺文書)。しかし,「親長卿記」文明2年12月24日条によれば,当荘は禁裏の新御料所となり,丹波守護細川勝元に年貢の納入が督促されている(大成)。「山科家礼記」文明4年12月16日条に「丹波大沢七村御年貢拾五貫文方々被進之,予仕⊏ ⊐卅八人各三百八十宛,号新御領地と也」と見え(纂集),同書同9年12月28日条に「大沢庄号新御料所,御番各四十八人支配六百文,合力未取方一貫八十八文也」と見え(同前),大沢荘の年貢が禁裏の廷臣に分配されている。また,この当時大沢荘が7か村からなっていたことも知られる。大沢荘の地域は文禄3年検地奉行前田玄以により太閤検地が行われ,「丹州多紀郡大沢荘民図帳」の写本には谷山・岩崎・宇土・網掛・吹・小畑・坂戸の7か村に大沢荘が肩書されている。この7か村が荘域に比定される。坂戸・小畑はのちの大沢村の内で古い地名。奈良県天理市山田町の薬師堂鰐口銘に「大沢庄裕山村松田宮御宝前,応永廿三年卯月四日敬白大願主藤原国□ □□□大工」とある。裕山村は谷山村で松田宮については伝承がない(改訂天理市史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388697
最終更新日:2009-03-01




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