- JLogos検索辞書>
- 大田荘(中世)とは
「大田荘(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
![]() | 大田荘(中世) 平安末期に女院御領として置かれた荘園名「和名抄」に見える埼玉郡大田郷が中心となって荘園化した地名という荘域は大田郷よりはるかに広く,現在の北埼玉郡の大部分と南埼玉郡の北部一帯から大里郡の一部にまたがる武蔵最大の荘園である成立は平安末期に鳥羽天皇第3皇女八条院に付されて形成された女院御領で,旧来の皇室領勅旨田や寄進地系荘園によって形成されていたと思われる荘名の初見は「吾妻鏡」文治4年6月4日条の「八条院領武蔵国大田荘」であるが,鎌倉政権成立後は幕府の支配下に属し,建久5年11月,幕府は大田荘の堤の修固について明年3月以前に修功するよう命じているこの地は利根【とね】川系諸河川の乱流した沖積地であったので,水利の便よく,一部条里も施行されるなど早くから開発されていたが,反面治水の面で問題があった寛喜2年武蔵公文所は荘内の荒野新開を策し,奉行として尾藤左近入道を命じたこの時荘内の多賀谷氏・栢間氏ら御家人層も開発に当たったと思われ,仁治2年12月多摩荒野の開発に栢間左衛門尉・多賀谷兵衛尉が奉行に任命されているのは,大田荘開発に従事した経験をかわれてのことであろう荘内の鷲宮明神は大田荘総鎮守とされ,幕府や武家の崇敬篤く,建久4年・承元3年には鷲宮宝殿での怪異が報ぜられている(以上,吾妻鏡)荘内は北条氏の支配下にあったが,御家人にも宛行われ,寛喜2年2月20日の小山朝政譲状によれば荘内の上須賀郷は,朝政が頼朝から拝領した相伝の所領であった(小山文書)北条氏の滅亡後,建武2年由緒の地として「武蔵の大田の荘を,小山の常犬丸に宛行わる」(梅松論)とあるのは上須賀郷のことと思われるが,小山義政の乱後の永徳2年12月,鎌倉公方足利氏満は義政討伐の勲功の賞として安保憲光に「武蔵国大田荘内須賀郷半分」を宛行っている(安保文書)また翌3年の鶴岡荘厳院文書によると,岩付【いわつき】・春日部境いの地が慈恩寺領となっていたすなわち氏満は慈恩寺領である大田荘花積郷御厩瀬渡しと渡船を在地の豪族渋江加賀入道が押領したのを停止するよう壱岐弾正入道に命じたのである文和4年4月8日付の佐々木文書によれば,佐々木道誉の所領である「武蔵国太田渋子(渋江カ)郷地頭職」を佐野越前守が押領し,義詮の命により基氏が停止に当たっているこうして国人衆をめぐる所領押領などの悪党的動きが目立つが,永享の乱後の関東再編成により足利成氏が鎌倉公方に復活すると,両上杉氏と成氏の対立が深まり下総【しもうさ】古河【こが】に拠った成氏は古河公方と称し,両上杉氏との戦乱が大田荘にも展開された享徳4年成氏の軍勢は関宿【せきやど】より撃って出て大田荘を通り足立郡の過半を押領した(鎌倉大草紙)翌5年,成氏は大田荘鷲宮明神に凶徒退治の願文を捧げ,所願成就の暁には足立【あだち】・埼西【きさい】両郡の段銭をもって社殿の修復を誓っている(鷲宮神社文書)次いで長禄3年・寛正6年に成氏は上杉・今川・武田と大田荘で戦っている(足利家御内書案)永正年間には成氏の子政氏が子の高基と小田原北条氏対策で対立し,久喜【くき】に館を設けて退隠した16世紀の大田荘は羽生の木戸・広田氏,忍【おし】の成田氏,岩付の太田氏の支配下に属し,天文15年以後はそのほとんどが小田原北条氏の支配地となった以上のように大田荘は鎌倉期以後,荘園体制も解体し,地名表示として命脈を保ち,江戸期にも朱印状・金石文等に散見される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」