ケータイ辞書JLogosロゴ 太田荘(中世)


兵庫県>但東町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。出石郡のうち。「平家物語」巻12によれば,文治2年源行家を和泉国八木郷に討ち取った比叡山西塔北谷の僧常陸房昌明はその勧賞として源頼朝から「但馬国に多田庄,摂津国に葉室二ケ所」を賜ったという。この「多田庄」は延慶本「平家物語」などでは「太田庄」と記され,当荘を指す。常陸房昌明は当荘にあって,太田氏を称した。太田昌明は承久の乱後,北条政子の論功行賞によって但馬国守護に任じられ,以後,6代太田守延まで亀ケ城を本拠として,西方の木村に岩吹城,東方の畑山に仏清城を築いた(但東町史)。亀ケ城跡は現在の但東町太田字城山,高竜寺岳の東山麓先端部に位置する(城館荘園遺跡)。弘安8年の但馬国大田文には「太田庄 八拾丁〈法金剛院領 伯宮御領 地頭越前々後室〉」とある。この頃にはすでに太田氏は当荘地頭を退いていたらしい。観応元年10月25日付足利尊氏寄進状などによれば,太田荘地頭源氏の寄進状にもとづいて「但馬国太田庄内坂本村」が京都臨川寺三会院に寄進され,下地は同院雑掌に付された(臨川寺重書案文/大日料6‐13)。次いで,同2年には「但馬国太田庄内秦守村」が足利直義から亡息如意王の追善のため三会院に寄せられ,足利義詮もこれを安堵している(臨川寺重書案文観応2年卯月8日付直義寄進状・同年8月15日付義詮安堵状/大日料6‐14・15)。その後,貞治4年2月22日付官宣旨(臨川寺重書案文/大日料6‐26)によれば,「太田庄内秦守村坂本村地頭職」を安堵するとともに伊勢大神宮役夫工米・御禊・大嘗会以下の勅役をはじめとする諸課役が免除された。秦守村・坂本村の比定地は未詳。このほか,当荘内には唐河村・赤鼻村・中山などの地が属していた(広峰神社文書,菊大路文書/大日料6‐16,蔭涼軒日録/大日本仏教全書)。「荘園志料」は唐川・本・市場・中山・三原・東里・日向・坂津・口赤花・奥赤花・口藤ケ森・奥藤ケ森・坂野・虫生・高竜寺・西野々の地を当荘域とする。古代の「和名抄」資母郷の郷域が荘園化したものとみられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388734
最終更新日:2009-03-01




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