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- 太田荘(中世)とは
「太田荘(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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太田荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
太田荘(中世) 南北朝期にみえる荘園名出雲国飯石【いいし】郡のうち西国奉行名和長年の證判をもつ建武3年2月日付の「宇佐輔景軍忠状」(三刀屋文書/旧県史6)に,「出雲国三刀屋太田荘藤巻村地頭左兵衛尉宇佐輔景,今年□建武三□正月十日令発向山崎致軍忠」とみえるのが初見旧県史(第6)は当荘について,「太田荘は今飯石郡鍋山村大字殿川内の域に在りて今も太田の名を在す其北部山頂の嶮峻を極むる所に城跡あり,明治の初め此地に後山【うしろやま】の字を付せり,蓋し古名の御城山【おしろやま】を訛りたるなり太田庄は二部落に分れ其一を古名のままに太田といい,其二を後山という,此太田部落と後山との間の小山は則ち城山なり城山の東山麓に五輪塔あり,輔景の墓なるべし」と記しているしかし,「太田荘藤巻村地頭」と記されていることからも推測されるように,太田荘には藤巻村以外の村もあったと考えられ,その荘域はもう少し広かったのではないかと推定される三刀屋川流域にあって,現在の三刀屋町太田・殿河内周辺に比定することができよう暦応3年11月24日付の「足利尊氏御教書」(毛利徳正氏蔵吉見系譜/旧県史6)に,吉見頼直の所領の1つとしてみえる「太田庄」も当荘と同一と考えてよいであろう... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
太田荘(中世) 南北朝期~室町期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
太田荘(中世) 鎌倉期に見える荘園名岩井郡のうち建武元年8月の中尊・毛越両寺衆徒言上状に所引の弘安11年4月23日関東裁許状には,「爰新熊野社別当職,同領太田庄預所職事,長弁僧都辞申之処,当社者,為毛越寺内」「仍於新熊野別当職者,毛越寺僧,就臈次,向後可令執務,且両造作之裡者,以件預所得分,可致沙汰」などとある当荘は毛越寺新熊野社の所領であったことが知られる新熊野社別当・太田荘預所の両職は毛越寺僧によって知行され,預所の収益(得分)の一部は寺の造営にもあてられていたことがあった当荘の在所は平泉の近辺太田川の流域に比定されるか... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」