ケータイ辞書JLogosロゴ 大庭荘(中世)


兵庫県>浜坂町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。二方郡のうち。久斗荘と併せて久斗大庭荘ともいう。皇室領(長講堂領)荘園。建久2年の長講堂所領注文に「久斗大庭庄」とあり,後白河院創建の六条殿長講堂に寺役以下を勤仕した(島田文書/鎌遺556)。弘安8年の但馬国大田文には長講堂領として「大庭庄 七十四町五反百十四分〈加伊含浦定〉」と記す。荘内には伊含浦が含まれ,当荘の案主・伊含浦下司は国御家人の宮井盛長,惣追捕使は宗貞女子。案主代聖願の注進状によれば田地の内訳は不作河成1町5反余・田公荘講代3町5反余・仏神田4町余・定田65町3反余。定田のうち38町9反余は百姓名で,残余は預所分・下司名・伊含浦下司給・惣追捕使名などに充てられた。元弘3年7月には中原国盛が「但馬国大庭庄内案主職」を八代荘の安養寺長老義亨に寄進している(徳禅寺文書/大日料6‐30)。下って,応永14年3月日付長講堂領目録には「同(但馬)国久斗大庭庄 右大臣家(今出川公行)年貢絹三十疋」と見える(八代恒治氏所蔵文書/同前7‐8)。なお,寛正4年3月の久谷八幡宮再建棟札写に「一,五貫文 大は庄」とあるのも注目される(株本順夫文書/浜坂町史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388847
最終更新日:2009-03-01




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