ケータイ辞書JLogosロゴ 大山荘(古代〜


兵庫県>篠山市

 平安期〜戦国期に見える荘園名。丹波国多紀郡のうち。東寺領。現在の篠山市大山地区に比定される。平安初期,東寺は綜芸種智院の売却代金で丹波国多紀郡河内郷の土地を買得。この買得地はときの東寺別当長者実恵の奏請を容れた承和12年8月8日の太政官符と,同年9月10日の民部省符によって,東寺領荘園として立荘された(東寺文書/大山村史史料編)。この土地はもと藤原良房の所領であったが,新しく墾田9町144歩,池1か所堤長70丈,林野35町が東寺の伝法料田として設定された(同前)。東寺は荘家を設けて荘官を任命し,田堵を使って経営に当たったが荒廃する田が多かった。寛弘6年以降,丹波国司は寺田が荒廃するごとに現作田免除主義をとり,現作の田のみを認め荒廃田を収公した。東寺はそれに抗議して免除を求める事を年々繰り返しながら,延久元年の荘園整理令以降はほとんど滅亡の状態になった。応徳3年東寺五重塔の再建を契機として,源顕房や次男の丹波守顕仲らの奔走により,この塔の仏聖灯油料と修理料にあてるため,当荘は復活し,60町の田が一色田として再建された(同前)。しかし,次の国守源季房の時収公され,次いで国守となった高階為章も康和元年に収公した。ところが為章は,終任に近い康和4年に当荘が官省符荘であることを認め,宣旨に従う旨の解状を朝廷に出したので,現地では同年7月15日立券坪付がなされ注進された(同前)。再建された当荘の坪付の合計は,田畠山林ともに432町余で,うち田は91町余,畠は73町余に拡大し,その上不輸不入の特権をも認められた(同前)。為章は終任後当荘の預所となって強力に支配を押し進め,前国守の立場を利用して私腹を肥やした。かくして当荘は長く継続した現作免除制を排して,永久2年一円寺領となった(同前)。荘田も増加して保安3年には60町となり,ほかに加納田20町を所有するに至ったが,加納田20町はまもなく国衙に収公されたとみられる。当荘は鎌倉期になっても暫くの間は安定していたが,承久の乱後,武蔵国中沢郷の中沢左衛門尉基政が戦功により新補地頭として当荘に入部し,次第に勢力をのばして東寺の権益を侵害するようになったので,東寺の要請で,仁治2年5月当荘は地頭請となった。その請状によると年貢などは米142石4斗,夏畠地子麦10石,その他雑多な食品,桶・杓・櫃・折敷などの日用雑貨におよんでいる(同前)。弘安3年頃から地頭中沢基員は年貢を滞納しはじめ,同7年までに560石余の滞納額となった(同前)。永仁3年東寺は地頭と下地中分することとなり,池尻村内一井谷と賀茂茎谷および西田井村とで合わせて田地25町・畠地5町・山林若干が領家東寺領となり,残りの3分の2は地頭中沢基員分となった。東寺では乾元元年から従来の執行方にかわって,供僧方が荘所務を司るようになり,預所として重舜を派遣して経営に当たらせたが,重舜に不正があって荘民と対立し,一井谷の百姓は文保2年6月14日年貢の百姓請を成立させた。この時,田を上・中・下に分けて斗代を定め,上田7斗5升・中田5斗7升・下田4斗5升とし,8町1反30代の田積の年貢は50石4斗6升とした。この頃から百姓の間では次第に村落自治の動きが活発となった。また西田井村ではこの頃年貢の銭納を行っている。荘内では大山市場が発達し,周辺の地域から商人が集まり商品流通もみられた(同前)。隣りの宮田荘とは古くから山野と用水の争いが見られ,建治2年に地頭中沢基員が宮田荘木乃部村の代官源三郎入道西善を殺害する事件があり,西田井村は田地が用水の都合で荒廃していたが,徳治3年5月28日に宮田荘が新たに溝を掘って水を送る代わりに,当荘が井料田1町5反と溝料2反を提供することで解決している(同前)。正和4年3月には宮田荘預所筑前々司為成によって,地頭中沢基員の子直基らが「大袋の大犯」の罪で訴えられている。これは宮田荘木乃部村の加治大夫安貞が路上で直基らに捕らえられ,米100石と銭200貫文を脅迫され,まずは銭200貫文を渡し,米はあとで出すといったのでやっと帰された事件である(近衛家文書/同前)。鎌倉幕府が滅亡すると,敵方の地頭中沢氏の所領が没収され,元弘3年9月1日,後醍醐天皇は大山荘地頭職を東寺に寄進した(東寺文書/同前)。そのため中沢氏は違乱・濫妨を働き,翌年7月に雑訴決断所が名和長年に濫妨を停止させ,東寺の雑掌に渡すよう命じた(同前)。正平6年に南朝方が,延文元年には北朝方が当荘をそれぞれ東寺に安堵したが,前地頭の中沢氏は足利氏に所属していたので,室町期に入ると再び地頭職を獲得した。一方で南北朝動乱期に当荘は一段と衰退の道をたどって行った。貞治4年に半済給人の田所がはいって,年貢の半分は東寺に納められなかったが,応安2年11月幕府は丹波守護山名時氏に,当荘領家職の半済給人を退け,一円を寺家雑掌に付すことを命じた(同前)。そこで東寺は同4年に検注した荘園の維持に努めたが,守護役などの賦課が多くなって百姓が逃散したり,中沢氏が五丁田を押領したりして,年貢は完納されなかった。永徳2年から代官制を,至徳3年から番頭制をとって再編成に努力したが,強大な守護山名氏の勢力が荘内に及び,番頭制は明徳3年に廃止された。かわって武士代官の請負制となり,その請切料は年代を下るほど減少し,また周辺から土豪の侵入や百姓たちの台頭も著しくなり,正長2年2月一井谷の百姓が土一揆を起こし,政所を焼き中間を殺す事件があった(満済准后日記)。応仁の乱中は当荘は醍醐三宝院殿に預けられたが,文明10年の3月と6月東寺に返され,将軍足利義尚の御教書が出て臨時の課役段銭を免除し,守護使不入の地としたがその効力はなかった。当時の代官進藤修理亮は非法を繰り返し押領を企てたので,同14年5月進藤の代官職を改替して,中沢元基を代官にしたが,20貫文の請切制も実施しなかった。元基についで元綱が文亀3年代官に登用されたが,当時守護として当荘を勢力下におさめていた細川氏に内訌が生じ,永正5年澄元と高国との激しい争いの渦にまきこまれ,澄元派の元綱は高国派の波多野孫四郎元清らと戦い討死した(同前)。東寺は元綱死後進藤元広を代官に任じたが,波多野元清の勢力下にある長塩元親が侵入し,進藤を退けて当荘内を支配したため年貢は東寺に納入されず,東寺領大山荘はここに消滅した。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7388924
最終更新日:2009-03-01




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