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「岡」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 




加古川支流門柳川下流域に位置する...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7388944]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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岡崎藩【おかざきはん】

(近世)江戸期の藩名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

岡崎藩(近世)
江戸期の藩名三河国額田【ぬかた】郡岡崎に居城を置く譜代藩天正18年徳川家康の関東移封によって,秀吉の武将田中吉政が近江国八幡山より岡崎に入城し,三河国額田・加茂両郡で5万7,421石を与えられた(柳川市所蔵田中文書)文禄3年伊勢国三重郡で3,009石余,同4年三河国幡豆【はず】郡西尾・尾張国知多両郡で3万石,慶長元年三河国碧海郡で1万4,252石余が加増され,この総高は10万4,682石余となるが,知行方目録によると,10万石とある(同前)吉政は在城11か年の間に大土木工事に着手し,近世岡崎城下町の基礎を築いた慶長5年吉政は筑後国柳川32万5,000石に移封したため,その後松平忠頼・北条氏勝が岡崎城番を勤めた同6年本多康重が上野国白井より入封して立藩し,康紀―忠利―利長と4代・44年にわたり在封寛永2年の領知目録によると,藩領は額田・碧海・幡豆・加茂4郡で5万1,560石余同11年に5,000石加増された慶長9年「辰之御縄」と称される三河国検地が行われ,岡崎藩では相給寺社領を含め,家老の本多十郎右衛門・中島半兵衛が検地奉行を勤め,地高5万3,560石余を打ち出した同12年の矢作【やはぎ】川洪水を契機に,木戸の設置,菅生川の架橋など新しい城下町建設と城郭整備が進捗した同19年岡崎城の大修築を,元和3年天守閣の造営を行った慶長14年伝馬町が設置され,伝馬人足の常備体制が整う藩士知行制は,地方知行制が採用された正保2年忠利は遠江国横須賀に移封し,代わって三河国吉田より水野忠善が入封水野氏は,忠善のあと忠春―忠盈―忠之―忠輝―忠辰―忠任と7代・118年にわたり在封藩領は,はじめ額田・碧海・幡豆・加茂4郡5万石であったが,享保10年額田・碧海・加茂・宝飯【ほい】・設楽【したら】5郡66か村・1万石が加増され,宝暦12年当時は,額田郡76か村,加茂郡39か村,碧海郡61か村,幡豆郡5か村,宝飯郡1か村の合計182か村・高6万石(内高6万9,613石余)であった総検地は,正保4年からはじまり,大部分は慶安2年に実施され,高6万300石余を打ち出した寛文元年の総収納俵は,13万1,870俵であった(岡崎藩水野家総収納俵数書付)藩士知行制は,地方知行制から蔵米知行制に切り換えられたまた,正保4年より地方支配に大庄屋制を導入し,寛文4年「岡崎郷領内在々之名」では,町廻りと加茂郡を除いた領内を9手永に区分している正徳・享保年間頃には,上野手永・川西手永・堤通手永・山方手永・川南手永・東山中手永・北山中手永・名倉組・田口組・田内組・加茂組・宝飯組の名が確認される(岡崎市史)元禄10年幕府から三河国絵図御用を命じられた同15年赤穂浪士の幽閉を担当した元禄年間に岡崎宿の助郷が成立したと推定される享保10年岡崎宿の定助郷38か村(のち39か村)が指定された4代忠之は,享保2~15年勝手掛りの老中職にあり,享保の改革の中心人物として財政手腕をふるい,同10年その功績により1万石を加増されたしかし,藩の出費は年々増大し,そのうえたび重なる洪水により,藩財政は窮迫の一途をたどった6代忠辰は,藩財政の建直しをはかるため,徹底した倹約と財政の引締めを行い,他方中下士層からの人材登用を行ったしかし,寛延元年この藩政刷新の試みは,重職たちの激しい抵抗にあい挫折したやがて,忠辰は絶望により退廃への道理に外れた行動に走ったため,座敷牢に幽閉され,この世を去る宝暦12年水野忠任は肥前国唐津への移封が命ぜられ,翌年下総国古河から松平(松井)康福が入封した藩領は,三河国額田・碧海・幡豆3郡,および石見・相模・伊豆3国で5万400石であったというが(旧岡崎市史),石見国については誤りで摂津・河内2国と推定される(岡崎市史)康福は,就封中ほとんど田沼時代の老中職に就いていたため,江戸に定府し,在地性が薄かった地方支配には大庄屋制を継承した明和6年康福は,8年余の在封で石見国浜田に移封し,代わって浜田より本多忠粛が入封したこの本多中務大輔家は,忠粛―忠典―忠顕―忠孝―忠民―忠直と,明治維新に至るまで6代・102年にわたって在封した藩領は,はじめ三河国額田・碧海・幡豆3郡で5万石であったが,天明2年碧海郡2か村が幕府領同郡5か村と,天明5年幡豆郡1か村が幕府領額田郡4か村とそれぞれ村替され,総高6万522石余となり,文政元年の収納定俵は6万2,796俵余(三州岡崎管内記)地方支配は大庄屋制を採用し,領内を6手永(上野・川西・堤通・山方・東山中・額田)に区分して統治した「岡崎藩万書上」では,寛政元年の武家人数1,222,同年の武家以外の家数1万43・人数4万7,002,牛108・馬472,往還伝馬人100・往還伝馬100,高札場89,林113か所,寺社796,牢屋3,船15天明8年の巡見使御尋之節答書控帳では,公儀献上品は串蜊・素麺・・大栗明和8・9年に江戸の三屋敷が類焼した天明3年相場頭取を置き,物価統制を試みる岡崎藩の主な改革は,寛政年間と安政年間に行われた寛政の改革は,すでに藩主が矢作【やはぎ】川の水害や東海道での接待費などによる財政窮乏を理由に転封を願い,安永7年には幕府より1万両を借用したように,財政再建に主眼が置かれた改革の中心人物は,家老の中根隼人・服部平兵衛であったが,大坂蔵元にかわって江戸の商人三谷喜三郎が登場し,援助や提携活動を行ったその結果,32万両余の借財のうち8万5,000両の返済が実現したしかし,反改革派により寛政8年服部は隠居,同11年中根は失脚し,三谷も手を引いたまた,寛政2年死去した忠典の跡目相続をめぐる養子問題で,藩内の対立が起こった文政年間頃には,返金講・融通講が実施され,村々からの借入金が増加した天保7年加茂一揆が起こり,岡崎藩兵873人が出兵した安政元年には羽根村で操練が行われた明和4年の破堤で矢作川が天井川化したため,水害が続き,特に安永8年・寛政元年・文化元年・文政11年・嘉永3年・安政2年・万延元年は大水害を被ったそのため,安政の改革も財政再建を中心に着手され,町年寄や大庄屋の全面的協力を得て,安政7年には藩札を発行した忠民は,万延元年~文久2年老中に就任し,元治元年には天狗党に備えて出陣を命ぜられ,元治元年~慶応元年再度老中に就任した藩内では幕末期勤王・佐幕両派で対立していたが,慶応4年当藩は朝廷側へ追従の態度を表明したこの決定に反対した藩士20数名は,脱藩して遊撃隊に合流した明治2年忠直が版籍を奉還し,藩知事となる当時の藩知事の家禄2,135石余,戸数1万2,058・人口5万3,943(内閣文庫蔵愛知県史料)大参事は都筑・大谷・坂口・伊藤・河面・大野・服部・牧が勤めた藩債は46万8,003円余(藩債輯録)明治2年藩校允文館・允武館が創立同年助郷制の改変や宿役人の不正などにより,岡崎伝馬所騒動が起きる明治3年の伊那県騒動,翌4年の大浜騒動に出兵した(岡崎市史)明治4年7月の廃藩置県により岡崎県となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

岡山藩【おかやまはん】
(近世)江戸期の藩名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

岡山藩(近世)
江戸期の藩名外様大藩備前を中心とする戦国大名の成立は元亀~天正年間,宇喜多直家に始まり,その子秀家にいたって備前・美作両国を主とした47万4,000石を支配する大名として確立した直家父子の主な業績は,岡山城下町の建設,領国経済の統制,社寺領検地などである天正9年直家は死去し,秀家は豊臣秀吉に臣従してついに五大老の1人として名を成したが,関ケ原の戦で没落し,慶長11年八丈島流刑に処された慶長5年,代わって小早川秀秋が筑前名島35万7,450石から岡山へ入った秀秋は,備前・美作両国および備中の一部で51万石を賞賜されたが,同7年10月没し,嗣子がなかったため断絶の悲運をみた同8年2月姫路城主池田輝政の次男で,徳川家康の次女富子(良正院)を母とする忠継が備前一国を与えられたただし,忠継はわずか5歳であったので,兄利隆が代わって岡山に同18年まで在城したこの備前監国の時代,利隆の事績は「武州様法令」とわずかに残存する慶長9年検地帳などにうかがえる慶長18年正月輝政は死去し,その遺領は利隆・忠継・忠雄に分けられ,忠継は備前一国播磨国宍粟・佐用・赤穂3郡を合わせた約38万石を与えられ,利隆は岡山から姫路へ移り,忠継ははじめて姫路から岡山に入城したしかし忠継は元和元年没し,無嗣のため弟忠雄が淡路から岡山に入封して備前一国を領し,播磨3郡は輝澄・政綱・輝興の弟3人に分与され,淡路は収公された代わりに忠雄は生母富子の化粧料であった備中国浅口・窪屋・下道・都宇の4郡内3万5,000石余をのち領有し,岡山藩領知高31万5,200石が確定,明治維新まで続いた忠雄は寛永9年4月死去し,嗣子光仲は3歳にすぎなかったため,姫路から因伯両国へ移されていた池田利隆の子光政と備前との国替が命じられ,同年8月光政は鳥取から岡山への移封を完了,池田光政系統によって廃藩まで一貫する岡山藩政が始まった忠雄の事績には寛永検地の施行などと「忠雄様法令」があるが,ともかく光政が実質的な岡山藩祖といえ,岡山藩政は光政・綱政父子の代に確立された光政は希有の好学大名で,熊沢蕃山などを重用して儒学を振興し,藩校・郡中手習所(のち閑谷学校に統合)などの教育の場を設営するなど,文化的な基盤を確立するとともに,藩営新田の開発など物的諸条件の整備を計り,もって政治面での仁政理念の徹底化に努めたこの仁政理念は歴代藩主に継承されて岡山藩政の基本理念となった他面,光政は専制的な強権をもって家臣団の統制を計り,その領国支配には多分に武断的な一面もみられた2代綱政は光政とかなり対照的で,文治的に「公私の典故」を整備して藩政を内容的に充実した寛文12年6月光政は致仕し綱政が家督を相続したが,幕府の許可を得て次男政言に備中領内新田2万5,000石,三男輝録に同1万5,000石を分知したことに鴨方・生坂の両支藩が成立したが,ただし,両支藩主とも岡山城下に在住して固有の陣屋をもたず,重科人の仕置も本藩の仕置場で執行した岡山藩の朱印高は31万5,200石,新田高と改出高,両者を合わせて又高と呼ぶが,朱印高に又高を加えた地高は(二口高)約40万石,地高から万引高を差し引いた残高は約37万石で,この高が実質的に貢租対象となる高であるなお,名目上の高ともいうべき直高があり,その総計は約500万石,家臣の知行高は直高で表示されて約30万石であった直高は,元和3年光政が因伯32万石に減封されたとき,幕閣の指示による家臣の数も知行高も減らさない方策として,因伯32万石の年貢米と18万3千石(免5ツ7分強)を旧領地高50万石に対する年貢米と見なして免率は3ツ7分弱の数字を出し,家臣への知行物成を3ツ7分に低減して辻褄を合わせたものであるこの直高制は光政が岡山移封したのちも踏襲されたなお,知行物成は藩財政の逼迫化に応じて3ツ5分から3ツ,次いで2ツ5分と低減した家臣数は明和2年で知行取568人,切米取4,725人,侍屋敷は1,295軒であった家臣団は家老以下の多くの階層(格)に分かれ,各階層に応じて役職に就いた家臣団の形成過程を見ると,藩政初頭までに仕官した尾張・美濃・三河国など出身の一族並びに譜代が主流勢力を構成し,岡山入封後の新参は,下級平士以下に集中している藩政の進展に伴って軍事から政事へと重点が移り,元禄年間前後から職制の分化・整備がすすんだ当藩の知行制度は地方知行制度であったが,承応3年の大洪水・大飢饉を転機として,実質的には俸禄米制度と化し,給人の知行権は大幅に領主権力に吸収された貢租体系は,朱印高に対し約6ツ,地高に対し約4ツ5分の物成,定米と総称される,物成100石につき6石の夫米,同2石の口米,同6斗5升の糠藁代などの付加税があったそのほか,地子米(銀),運上・冥加銀・万請代などもあった藩財政は当初から不足勝ちで,延宝4年には銀2,805貫の赤字を一時建て直して黒字に転じたこともあったが,概して赤字財政を繰り返し,文政12年には銀約14貫の不足で,嘉永年間以後は国役の増大・兵制改革・各種出兵などで一層窮乏化したこのような財政逼迫を一時的にしろ大きく救い,農業生産の増額をもたらしたのが,大規模な藩営新田の開発である池田光政は土木巧者の津田永忠に命じて児島湾周辺の干拓に取り組ませ,以後続々と藩営新田が造成され,町人請け・村請けなどを合わせると,江戸期を通じて約15万石の新田高を生み出し,外に約5万石の改出高もあったそして,この新田地帯を中心に綿・菜種などの商品作物が栽培され,農村商工業が19世紀初期から著しく進展した特に児島地方の機業は塩業とともに注目すべきものであった農村商工業の進展に伴い,城下問屋層に対抗する在郷商人層が台頭し,その状況に対応した藩権力の在り方が,藩専売制に集中的に現われ,天保年間から幕末にかけて財政および兵制を中心とした藩政改革が数次行われた幕末の政争では文久3年徳川斉昭の9子茂政が藩主となったこともあり,尊攘敬幕(翼覇)という因循姑息で微妙な立場に立ち,国事周旋の役割を担って尊攘派下級平士らの活躍が注目されたが,結局,明治元年2月茂政は病気を理由に退隠,徳川氏と無縁の鴨方支藩主政詮(章政)が宗家を相続するに及んで,岡山藩は堂々の旗幟をかかげて勤王討幕軍に加わった明治4年の廃藩置県により岡山県となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

岡崎城下(近世)
 江戸期の城下名...

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岡山(近世)
 江戸期の城下町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

岡崎村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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岡崎市(近代)
 大正5年~現在の自治体名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

岡富村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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岡の御堂古墳群【おかのみどうこふんぐん】
古墳中期末(5世紀末)の盛土円墳群と中世の遺物包含層...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

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