ケータイ辞書JLogosロゴ 奥荒田村(近世)


兵庫県>加美町

 江戸期〜明治11年の村名。播磨国多可郡のうち。もと豊臣氏蔵入地。慶長5年姫路藩領,寛永16年からは幕府領。慶長7年池田輝政は奥荒田村の603石3斗5升など合わせて1,500石を由井助左衛門に宛行っている(鳥取県立博物館所蔵文書/竜野市史5)。村高は,「正保郷帳」624石余うち田492石余・畑131石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに221石余。延宝検地帳によれば,奥荒田村高221石余・的場村高373石余に分けられている。この時,当村から的場村が分村したものと思われる。「元禄郷帳」では的場村に「古ハ奥荒田村,的場村」と注記されている。延宝検地帳によれば,反別は田12町余・畑4町6反余。文化5年の御城米滝野高砂出明細(藤賀家文書/加美町史)によれば年貢は47石余。延宝検地帳によれば小物成は炭竈役銀19匁3分・鉄砲役銀2匁・山手銀47匁5分・藪役銀1匁。文化7年の倹約申合書(加美町史)によれば,「極山中谷入所……家数五十軒許,人別二百人程……高持家数十七軒……困窮ニ付当丑より十ケ年間倹約相定メ」と村内で数々の条項を申し合わせている。その1つには,15〜60歳の者は「夜なび」として1か月に縄2束(20把)ずつを毎月晦日庄屋宅へ持って行くことがあった。鎮守は大歳大明神(延宝検地帳),「県神社誌」には大将軍神社とある。中町門前の段の城の有田源八郎朝勝が,天正3年7月24日加東郡東条の豊市城主別所重棟に急襲され落城,有田主従は西に敗走,熊野部を経て当所で自刃。村人は同地に五輪塔を建て,のち大将軍神社として祀ることになった。住人は的場村金蔵寺の檀家。明治11年福原村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7389007
最終更新日:2009-03-01




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