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- 奥河内村(近世)とは
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奥河内村(近世) 江戸期~明治6年の村名伊勢国度会【わたらい】郡のうち宮川の支流一之瀬川中流左岸の山間に位置する地名の由来は,河谷の平地に位置する集落の意であることから,当地が河谷の奥まった所に立地することにちなむのであろうはじめ田丸藩領,元和3年津藩領,同5年からは紀州藩田丸領勝田組に属す村高は,「文禄3年高帳」「元禄郷帳」および宝暦3年検地帳ではともに77石余,「天保郷帳」「旧高旧領」82石余宝暦3年検地帳によれば,家数13(庄屋1・肝煎1・本役9・半役2)・人数65(男28・女37),牛馬6(小川郷村誌)天明8年の毛見指出帳によれば,本年貢のほかに炭山年貢・茶年貢などを納入文政年間の戸数16・人数73当村は山岳に囲まれた地で西山川沿いに狭少の平地を開田集落は山間に点在米・麦のほか雑穀・ソバ・芋類などの栽培を主にしていたが,狩猟も行われた周囲の山地は入会で,とくに小川谷の炭焼きは古くから行われ,山組8か村として炭かまを作り,田丸城下と神領へ売ったこの地域においては山稼ぎは大事な生活の糧であった明治4年度会県に所属同6年小川村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
奥河内村(近世) 江戸期~明治8年の村名奥川内とも書く豊後国海部【あまべ】郡佐伯【さいき】荘のうち青江川の上流域に位置する慶長5年臼杵藩領,同6年佐伯藩領警固屋【けごや】村を臼杵藩領とした際,替地が行われて佐伯藩領となる津久見村内津久見村組に所属村高は「正保郷帳」17石余,うち田15石余・畑2石余,「見稲簿」では津久見内の高なし村,「天保郷帳」では津久見村1,465石余のうち,「旧高旧領」63石余文化3年の村高58石余,うち田20石余(反別2町余)・畑37石余(反別9町余),家数39・人数192(改正郷村明細帳)当村周辺の青江奥山の200町余は,臼杵藩領の入会山であったが,当村や鬼丸村などが佐伯藩領となった時奥山の藩界を定めなかったことから,寛永18年以降臼杵藩領葛畑【かずらはた】村との間に入会権をめぐる争いを繰り返した延享年間両藩は幕府に出訴,同4年12月幕府の裁定が下り,絵図面を下付された鎮守は上青江社明治4年大分県に所属同8年長野村ほか11か村と合併して上青江村となる現在の津久見市大字上青江のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」