奥村(近世)
江戸期〜明治5年の村名丹波国氷上郡のうち柏原【かいばら】川支流奥村川流域もと豊臣氏蔵入地慶長3年柏原藩領,元禄8年旗本植村氏知行,同9年からは再び柏原藩領村高は,「丹波国郷帳」152石余うち田113石余・畑38石余,「天保郷帳」158石余寛政6年の家数27(丹波志)人家は2つの谷の入口に集まり,耕地の少ない農村である文化5年竣工の鼓池,のち明治14年完成の東奥新池があり,灌漑用水は多い酒井家が代々庄屋をつとめた(柏原町志)鎮守は天満神社・大歳神社寺院はもと産土神八幡神社(在柏原)の東の神宮寺であった大安寺があったが,天正年間の兵火で焼失,観音堂が残るほかに柏原藩主織田信休が前封地大和国宇陀郡松山から移した長泉山徳源寺があったが,明治の廃藩とともに廃寺,宇陀に戻された同寺は織田氏の菩提寺で,境内に信休以降9代の藩主とその夫人・家族の墓がある明治5年東奥村と改称
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7389068
最終更新日:2009-03-01