ケータイ辞書JLogosロゴ 大芋荘(中世)


兵庫県>篠山市

 南北朝期〜戦国期に見える荘園名。丹波国多紀郡のうち。南北朝期の文和・延文年間から貞治年間にかけて越前守藤原行光(土佐派)が当荘を絵所領として領有していた。延文5年久下帯刀丞と聖暁律師が当荘を押妨したので,幕府は同年12月2日中沢掃部大夫と荻野六郎左衛門尉にこの押妨を退けて,絵所預土佐行光に返さすよう命じている(土佐文書/兵庫県の歴史2)。幕府の下知状に「大芋社下司公文職等事,於石龕寺軍陣,雖宛行聖暁律師」とあるので,当荘は観応2年頃聖暁律師が足利尊氏父子が丹波へ逃げ,子義詮を石龕寺にかくまった時の功によって宛行われたと思われる。聖暁は土佐家へ宛行われたのを回復しようとしたものと考えられる。応安8年には土佐行光に代わって,巨勢行忠が絵所預となり大芋荘を継承した(愚管記/続史料大成3)。そののち当荘は再び土佐派の光重・光弘・光信・光茂と相承して永禄12年まで続いた。その間永享5年に細川持之の臣香西某が違乱し(満済准后日記),文明16年12月丹波守護細川政元が当荘代官職を光信に返付した。しかし翌年2月には波多野清秀が押領し,そのため百姓が逃散した。幕府は多紀郡内の畑・野々垣・中沢の各一族に命じて百姓を還住させ,その上当荘の名主百姓に年貢を懈怠なく納める請状を提出させた。永正年間酒井宮林と瑞阿弥の不法懈怠があり,大永3年12月には管領細川高国が当荘を守護不入の地とし,天文4年8月幕府は波多野秀忠の当荘押妨を停止するなど,室町期から戦国期にかけて押領に次ぐ押領によって,その終末期には絵所領としての機能を著しく低下させながらも,ほぼ土佐家領として続いた(土佐文書/兵庫県の歴史2)。荘域として「篠山領地誌」「篠山封疆志」には大雲荘として福井・中村・三熊・宮代・市野々・大藤・小原・小田中・小立・篠見・山田・藤坂をあげ,「多紀郡志」には大芋荘として福井・中村・三熊・宮代・市野々・大藤・小原・篠見・藤坂を記している。荘内に本家の大芋社(櫛石窓神社)が福井にあり,3神像は平安中期の作,明治44年国重文指定。小原には平安末期の大日如来像が,藤坂には真如廃寺の鎮守妙見堂(現長谷寺妙見堂)があり,室町初期の建造物として昭和54年国重文に指定された。当荘に本拠をもち戦国期に活躍した土豪大芋氏は,何時頃興起したかわからないが,大芋社と結びつきその祭祀権を持ち,大芋荘の荘官にもなり,また別当寺大宮寺の別当職をも握っていたと思われる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7389073
最終更新日:2009-03-01




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