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「小倉」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

小倉


加古川上流域...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7389090]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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小倉藩(近世)

江戸期の藩名天正18年豊臣秀吉は九州の大名配置を行い,側近の毛利勝信に豊前国企救【きく】・田川両郡で6万石を宛行い,小倉城に居城させたしかし,勝信は慶長5年の関ケ原の戦で石田方についたため改易に処され,外様の細川忠興が丹後国宮津から豊前一国と豊後国国東【くにさき】郡および速見郡の一部を領する大名として入国し,中津城に入った表高は30万石であったが,翌6年の検地で39万9,599石余を打ち出した忠興は慶長7年小倉城を大規模な城に築造し,本拠を中津から小倉に移したので小倉藩の成立をみた細川氏は新しい村編成と農村支配機構を確立するため,15~20か村を単位として手永と称する行政区画を設け,惣庄屋(大庄屋)の管轄区域としたまた,土豪・地侍層を庄屋・大庄屋にとりたて支配の浸透をはかった元和6年忠興は隠居し三男忠利が相続したが,元和8年「人畜改帳」を完成させ,のち金山開発,海外貿易,鋳銭や陶器窯(上野焼)などの事業を興した寛永9年忠利が熊本に移封されると,小倉城には播磨国明石藩主で譜代大名の小笠原忠真が入り,企救・田川・京都【みやこ】・仲津・築城【ついき】の5郡と上毛郡のうちで表高15万石を領した同時に一族三家で旧細川領の大部分を占め,徳川勢力は大きく九州に進出,特に小倉小笠原氏は一族の宗家として将軍家光から九州監視の特命を受けた以後,帝鑑間詰の大名として忠真,忠雄,忠基,忠総,忠苗,忠固,忠徴,忠嘉,忠幹,忠忱と相続された小笠原氏が細川氏から受け継いだ内高は19万8,871石・田畠1万7,521町余であった「寛文朱印留」によれば,藩領は豊前国企救郡一円95か村・2万7,783石余,田川郡一円63か村・3万6,033石余,京都【みやこ】郡一円66か村・2万2,222石余,築城郡一円39か村・1万5,556石余,仲津郡一円74か村・2万7,642石余,上毛郡のうち54か村(東上・東下・小祝・土佐井・緒方・西友枝・成恒・広瀬・堀立・黒土・小石原・岸井・市丸・安雲・志利(尻)高・矢方・梶屋・赤熊・今市・荒堀・四郎丸・河内・鳥越・大・野田・青畑・大西・才尾・山内・大河内・下河内・岩屋・篠瀬・鳥井畑・八屋・川底・薬師寺・河原田・鬼木・塔田・吉木・清水町・恒留・小犬丸・久松・香川・三毛門・三楽・森久・六郎・皆毛・高田・挿間・永久)・2万761石余で,総計15万石が表高である領内戸口は,寛永9年豊前六郡人畜帳(御当家末書)では2万3,645戸・5万3,630人(男2万9,185・女2万4,445),豊前国人数帳によれば,明和5年13万6,334人,文政11年13万1,827人,また慶応2年春は15万4,126人(うち武家1万1,419人)であった寛文11年藩主忠雄は弟の真方に築城郡のうち22か村1万石の地を分封,小倉新田藩を創設したしかし,貞享2年小倉新田藩領は上毛郡のうち26か村と交換された分封高は小倉本藩の高に含まれ,本藩の支配下にあったが,藩主の叙任や幕府に対する諸役負担は独立した大名と同様に取り扱われた小倉藩では,寛保2年から延享4年まで豊後国玖珠・速見・国東3郡のうち70か村・3万2,400石余を幕府より預った小笠原氏は小倉入部後,藩士に対しては蔵米支給制としたが,寛永14年地方知行制に復し,延宝6年からすべて蔵米支給に改め同時に藩札を発行した正徳年間,幕府の貿易制限に伴い小倉沖に中国密貿易船が頻繁に来航し,十数年間にわたる密貿易船追払いの出動が繰り返されたまた,幕府の御手伝普請の御用金献納を課されたさらに享保年間以降の連年の天災凶作,とくに享保17年の飢饉では4万2,911人の餓死者をだした天災と年貢徴集の強行は農村の疲弊を深め,藩士の俸禄米も享保年間以来一部借上げが恒常化した安永~寛政年間,家老犬甘知寛は藩財政再建のため敏腕を振るい,大規模な新田開発,惣定免制による年貢徴集,夫役・諸掛り物の高割賦課から人別賦課への変更などを断行したなかでも在郷非農民の耕作義務化などは,被差別民に対する青染着物着用令をはじめとする極端な差別法令を伴って実施された藩庫には2か年分の年貢に相当する金銀を蓄えたが,苛酷な年貢徴集で農村の荒廃は著しく,ために犬甘は失脚した以後,放漫財政と藩内派閥抗争が激化,文化11年には藩士の大量脱国事件(白黒騒動)が起こった天保・嘉永・安政年間には積極的に改革に取り組み,殖産興業の振興も図られたが,先進諸藩に比べて大きく遅れ,藩財政は年貢米収納と領民からの強制献金に依存していた当時は,10万5,000石前後の年貢収納が限界であり,藩内の各地で村方騒動が起こった幕末期における海防充実のための軍備拡充は財政窮乏を深刻化し,尊攘運動の展開で長州藩との対立が激化した文久3年他藩にさきがけて農兵隊1,400人余を組織して武力充実をはかった元治元年長州戦争では肥後・久留米・薩摩・柳川・佐賀・中津・唐津・安志等各藩の兵が小倉に出兵,急激な物価騰貴現象と夫役・戦用物資の徴発に領民は苦しんだこの時は戦闘に至らず解兵したが,第2次長州戦争では慶応2年6月から戦闘が開かれ,肥後・唐津・久留米・柳川・安志等の諸藩が出兵したが,ほとんど小倉藩が戦闘に参加し,7月末将軍家茂死去の報に接し出兵各藩は撤兵したこうして小倉藩は単独で長州藩と交戦することになり,8月1日小倉城に自ら火を放ち戦線を企救郡奥地に敷いた藩主忠幹はその前年病気で死去していたが,時局重大のため喪を秘し,嗣子豊千代丸(忠忱)は4歳6か月のため,小倉新田藩主小笠原貞正が後見として藩政を督した同年8月1日,企救郡を除く領内一円で百姓一揆が起こり,村役人や富豪の家が打毀に遭った企救郡の地で展開される長州藩との戦闘は互いに一進一退を繰り返したが,10月から肥後・薩摩両藩に停戦の斡旋を依頼,翌慶応3年正月企救郡を長州藩に預けることを条件に講和が成立したこれに伴い,慶応3年3月12日田川郡香春【かわら】に藩庁を開設,以後香春藩と称することになる藩主忠忱(豊千代丸)は幼少のため,小倉新田藩主貞正が引き続き後見し,6月に至り藩主忠幹の喪を発したこの戦争のため年貢の収納は悪く,特に企救郡は長州藩占領下のため収納対象にはならず,一方,戦費支出,肥後国熊本に避難した藩主・藩士家族の滞在費,さらに幕命による豊後国日田代官領への警備隊派遣などで藩財政は極端に窮迫した当時藩士には禄高に関係なく武家構成員1人1日米5合の面扶持制を実施していたが,翌慶応4年は緩和し,最高を知行500石で頭打ちとし,それぞれ2~3割の減石とした他方,かねて隣藩中津藩の要望であった上毛郡小祝村の換地問題が再燃し,慶応3年11月香春藩領小祝と中津藩領直江・土屋・別府3か村のうち255石の交換を行った慶応4年正月の鳥羽・伏見の戦から倒幕派に傾斜し,朝廷より兵力差出しの達しを受け,江戸攻め,ならびに東北平定のための兵力を派遣し,特に東北の戦においては善戦し勇名を馳せた藩内では生活物資の自給体制を堅持し,賢良を推薦して藩政の要路に就かせ,勤倹による合理化推進で専ら藩力(武力装備)拡充に努めた明治2年6月の版籍奉還で忠忱は香春藩知事に任ぜられたこの時,長州藩は預り地の企救郡の版籍を奉還したこれに伴い,香春藩は従来企救郡を含んだ15万石の軍役・上納金を新政府に勤めてきたことを理由に,企救郡の管轄権を新政府に主張したしかし,新政府は関門海峡をもつ要衝の企救郡を政府の直轄地として日田県管下とし,香春藩に対しては管轄権は渡さないが企救郡からの年貢収納分3万1,981石を政府の蔵米から渡すことを決定した他方,慶応3年小倉藩と講和した長州藩は企救郡に代官を派遣し,新たに大庄屋・庄屋を任命し,罹災した民家の修復に竹木を給したり,無料の医療施設を設けるなどしたところが,慶応4年と翌明治2年は凶作で食糧が不足し,村役人と長州藩役人との不正の疑惑などで民心は動揺,ついに明治2年11月郡内一円の百姓一揆が起こり村役人や富豪の家が打ちこわしに遭った長州藩はすでに企救郡の版籍を奉還し,企救郡は日田県の管轄下になっていたが,依然として占領政治を続け,百姓一揆後の明治3年2月企救郡から撤兵し日田県に引き渡した香春藩では新政府の藩治職制に則して藩の機構改革を行い,家老を廃して執政を置き,その下に市政局・郡政局・会計局・社寺局・軍事局・政府掛を設け,各局には知事が任命されたのち執政を大参事に改め,その下に権大参事(4人),少参事(3人),権少参事(5人)を任命したしかし香春に藩庁を置いたのは一時的措置であり,恒久的な藩庁建設が必要となったため,藩士の投票により仲津郡錦原村の地に藩庁を設けることを決定した明治2年から錦原の建設がはじまったが,中原屋(中原)・飴屋(玉江)・万屋(小今井)・柏屋(柏木)など藩内豪商の出財に負うところが大であった明治3年正月15日新藩の開庁式が挙行され,同時に政府の許可を得て錦原を豊津と改め,豊津藩として再生し,忠忱は豊津藩知藩事になった「旧高旧領」によれば,企救郡は日田県の管轄となっており,豊津藩領は田川郡一円64か村・5万4,752石余,京都郡一円71か村・3万4,617石余,仲津郡一円76か村・4万1,666石余,築城郡一円41か村・2万3,233石余,上毛郡のうち31か村(東上・東下・西友枝・土佐井・尻高・矢方・河原田・大・鳥越・川内・四郎丸・八屋・赤熊・河底・狭間・薬師寺・永久・沓川・三毛門・大西・青畑・才尾・山内・下河内・大河内・岩屋・篠瀬・鳥井畑・直江・土屋・別府,ただし土佐井・直江・土屋・別府の4か村は中津藩との相給)・1万8,061石余である豊津藩は学館育徳館を開いて文武を奨励し,またアメリカ人を雇って新しい技術(航海術)の習得をはじめ,藩士を英国に留学させ,また衆議所を設けて広く家中の士の意見を聞くなど,新しい施策を次々に実現していったそして香春藩時代以来の倹約の結果,優秀な洋式軍備の充実を実現し,豊津藩の軍事力は明治4年4月に小倉に設けられた西海道鎮台の支柱の1つとなった鎮台の分営は博多と日田に置かれたが,日田分営の要員は豊津藩士で編成された明治4年7月14日の廃藩置県により豊津県となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

小倉(中世)
 南北朝期~戦国期に見える地名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

小倉城下(近世)
 江戸期の城下町名...

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小倉炭鉱【こくらたんこう】
北九州市小倉北区足原町の大畑にあった炭鉱...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

小倉荘(古代~
 平安期~戦国期に見える荘園名...

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小倉荘(古代~
 平安期~戦国期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

小倉村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

小倉新田藩(近世)
江戸期の藩名譜代大名無城帝鑑間詰寛文11年小倉藩主小笠原忠雄は弟の真方に1万石を分知し,小倉新田藩が成立したこれは,寛文7年忠雄が小倉藩を襲封したとき2万1,000石余の新地を幕府に書き出し,この新地を基礎にして分知1万石の新田藩を設けることを幕府に申請,許可されたものであったしかし,実際に分知された土地は新田ではなく築城【ついき】郡内の22か村で,これは本藩の高のうちに含まれる内分支藩であったこのほか本藩から別に合力米として1万石の高が与えられ,これは四公六民の原則から物成4,000石を蔵米で支給されたしかし,蔵米支給分4,000石は延宝3年から1石につき銀40匁の計算で銀160貫を支給されることになった藩領の築城郡22か村は,貞享2年上毛郡のうち黒土手永・岸井手永の26か村と交換されたこの上毛郡内の当藩領の村は,黒土手永が久路土(黒土)・鬼木・下大西・塔田・野田・荒堀・今市・吉木・清水町・恒富・小犬丸・久松・三楽の13村,岸井手永が安雲・緒方・成恒・広瀬・岸井・堀立・梶屋・市丸・森久・六郎・小石泉・皆毛・高田の13か村である(筑上郡史)その後藩領の変更はなく,当藩は真方,貞通,貞顕,貞温,貞哲,貞謙,貞嘉(貞哲四男),貞寧(貞哲三男),貞正と相続された藩主は所領には赴かず,小倉城下の篠崎の屋敷に居住したので,篠崎藩あるいは篠崎侯と呼ばれた家老は本藩の番頭級の者から派遣されたまた上毛郡の黒土・岸井両手永を支配する奉行とその下役人には新田藩士が就任したが,本藩の郡代による一円支配の中に組みこまれ,新田藩が独自に藩領の支配を行うことはなかった幕府に対しては一藩の大名としての軍役が課せられた3代貞顕は宝暦7年と同12年の2度にわたり大坂加番を命ぜられ,4代貞温は寛政2年大番頭,同12年奏者番,文化2年西丸若年寄,同9年には本丸若年寄に就任した5代貞哲は文政6年大番頭を勤め,9代貞正は文久元年大番頭,同3年大坂警衛を勤めたなお,当藩と本藩との相続関係は,初代真方が本藩藩主忠雄の弟であることをはじめ,2代貞通が忠雄の三男を養子に迎えて継がせたものであるなど当初から緊密なものがあったさらに7代貞嘉は6代貞謙の弟であったが,本藩藩主忠徴の急死により貞嘉は新田藩主を兄貞寧に譲って本藩藩主となっている幕末期,尊攘運動で大きく揺れ動く小倉藩に当藩は多大の助力をした特に幕府の長州征討令の最中の慶応元年,本藩藩主忠幹の病没に伴いわずか3歳の嗣子豊千代丸(忠忱)を後見し,長州藩との戦争,小倉城自焼作戦などは当藩主貞正の功績であった藩内の大事件としては,天保9年6か村の農民の逃散があり,また慶応3年には小祝村と中津藩領直江・土屋・別府3か村との交換があげられる明治2年5月版籍奉還に伴い,本藩から離れて領内の千塚原の地に藩庁を開き,地名を千束【ちづか】と改め,千束藩が成立し,貞正が藩知事に任命されたのち,千束に館(旭城)の築造が始まったが,明治4年7月14日廃藩置県により千束県となる...

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小倉城【こくらじょう】
戦国期~江戸期の平城...

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小倉村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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