ケータイ辞書JLogosロゴ 小椋荘(中世)


兵庫県>柏原町

平安末期〜戦国期に見える荘園名丹波国氷上郡のうち保元元年と推定される12月2日の某書状に「尤□抑小椋御庄所当物并雑□等之間,頗不審事候也」と見え,当荘の所当物・雑物などが問題となっている(京都大学所蔵兵範記保元二年冬巻裏文書/平遺4759)ついで,応保元年と推定される2月3日の中宮権大進信国書状によれば,当荘についての訴訟が起こされている(陽明文庫所蔵兵範記仁安二年秋巻裏文書/同前4786)正嘉2年10月日の小椋荘惣田数注進状に「小椋御庄惣田数土帳目録之事 半済」と見え,当荘は久住名・元延名などの21名に分けられ,これらの名は均等ではなく,このほかに使田・半済田があり,不作・川成などを含めて総田数は41町2反20代である(久下文書)貞和2年6月3日の小椋荘内領主久下仙阿所務代官菅原義成請文によると,当荘をめぐって久下仙阿と南条高光が相論している(大石寺文書/静岡県史料2)久下仙阿は,当荘が南北朝期となって闕所地となり,建武5年勲功の賞として仙阿が拝領したものと主張したこれに対し,同年11月日の南条高光申状によれば,高光は当荘を重代相伝の地で知行していたところ久下仙阿が押領したと述べている(同前)この相論の結果は未詳観応2年2月10日足利義詮は久下貞重に「小椋庄領家方〈小椋金熊丸〉跡」を勲功の賞として宛行ったその後,延文3年12月20日足利義詮が「小椋庄〈金熊丸跡〉」を久下貞重に,明徳2年8月10日足利義満が小椋荘領家職を久下重元に,それぞれ安堵している下って,明応8年11月19日の久下道祖増丸知行注文にも当荘の領家職が見え,久下氏に伝領された(久下文書)現在の柏原【かいばら】町上小倉・下小倉・見長に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7389094
最終更新日:2009-03-01




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