ケータイ辞書JLogosロゴ 小代荘(中世)


兵庫県>美方町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。七美郡のうち。建久2年10月の長講堂所領注文に「菟東(束)小代庄」とあり,兎束荘とともに後白河法皇創建の六条殿長講堂を本家とする荘園として元三雑事・三月御八講砂以下の公事を勤仕した(島田文書/鎌遺556)。弘安8年の但馬国大田文には「小代庄 三拾八町大〈長講堂領 領家近衛殿 下司八木七郎入道見阿御家人〉」と記す。田地の内訳は仏神田2町余・人給6町・定田30町余で,養父【やぶ】郡八木荘を本貫とする八木氏の一族で国御家人の八木見阿が下司であった。領家職は摂関家が伝領し,正応6年4月には鷹司兼平から子息鷹司基忠に譲与され,基忠子孫が代々相伝することと定められている(鷹司家文書/鎌遺18182)。また,応安4年3月6日付勘解由小路兼綱遺跡譲状に「一,鷹司殿御恩地等事……但馬国小代庄内輔遠名……以上可申給安堵御教書,数代家礼跡也」と見え,荘内輔遠名は鷹司家家司の勘解由小路家に給与された(広橋家文書/大日料6‐33)。なお,室町期の応永14年3月日付長講堂領目録にも「同(但馬)国菟束小代庄〈菟束方光照院殿,小代方鷹司殿〉」とある(八代恒治氏所蔵文書/大日料7‐8)。鎌倉期に田公清景の次男景高が小代荘城山城主となり,以後荘内では田公氏が勢力を振るったが,天正5年,羽柴秀吉が親毛利派の国人を討伐するため但馬に侵攻すると当時の城主田公能登守綱典は因幡宮吉城に退去したと伝えられる。綱典の退城後,太田垣信喬・広井典胤・小代大膳・山本房胤らは荘内の地侍を糾合して一揆を起こした。秀吉は小代一揆鎮圧に藤堂高虎を派遣したが,一揆衆は藤堂の在陣する大屋谷を攻撃するなどして抵抗し,平定は同8年という(美方町史)。なお,一揆衆の一員山本氏は永正元年に「小代庄内カンスイ名」の本役地利を給与され,同3年には「小代庄内多田宮,同吉滝宮神主職並国次名千カ谷代官職」に補任されており,後代まで多他宮神主として活動している。また,戦国期の荘内の状況を示す史料として永正7年4月吉日付小代荘之内才松丸知行散田帳・天文8年3月吉日付小代荘之内主計助知行納帳がある(同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7389143
最終更新日:2009-03-01




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