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「小野」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

小野


加古川中流左岸の丘陵地...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7389198]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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小野島村(近世)

 江戸期~明治22年の村名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

小野保(中世)
 鎌倉期~戦国期に見える保名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

小野保【おののほ】
(中世)南北朝期から見える保名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

小野保(中世)
南北朝期から見える保名田村郡のうち建武2年10月26日の陸奥国宣案(結城文書/県史7)に「白河・高野・岩瀬・安積郡・石河・田村庄・依上・小野保等検断事,可令奉行給者」とあるのが初見で,結城親朝が陸奥守北畠顕家より仙道8郡の検断奉行に任命され,親朝は奥州の南朝方の中核となった田村荘の成立は12世紀前後と推定され,小野保もそれと同時期か鎌倉期頃には成立していたものと推定される康永2年6月に親朝は,建武2年以前の知行地の保証を条件に北朝方に帰順したが,宇津峰城・霊山城の南朝方に対する攻撃にも参加しなかったため,結城氏は貞和2年7月16日の吉良貞家書下(同前)で「陸奥国白河庄岩瀬郡小野保検断事,京都御左右之程,守先例,可被奉行之状,如件」と,奥州管領によって検断職を3地域に削減され,検断職の世襲も否定されたしかし観応擾乱によって北朝方内部に混乱が起きると,足利尊氏は結城氏を北朝方にひきとどめるために,文和元年12月17日の足利尊氏下文(熱海白川文書/県史7)では「為陸奥国小野保・安達東根等替,所充行也者」として田村荘闕所と出羽国小島荘とを結城顕朝に宛行い,翌2年正月には顕朝を親朝と同様に8郡の検断職に任命したものと推測される(同年正月13日下野守某奉書/飯野文書)応永4年5月22日の足利氏満御教書案(相馬文書/県史7)には「小野保名主国井若狭守・田原谷弾正等」が足利氏の扶持衆に合戦をいどみ,鎌倉公方の指令によって退治すべきことが命じられている結城白川氏と相馬氏・石川氏は所領をめぐり対立していたが,(正長2年か)正月29日の前伊豆守常次奉書案(角田石川文書/県史7)では「小野保事,本領之由被聞食候,追而可有御沙汰之旨,被仰出候」と,鎌倉公方足利持氏は石川持光に小野保の安堵を約しているこのような持氏の相馬・石川方への支援によって白川氏朝は鎌倉公方持氏のもとを離れ,直接幕府(義教)に保護を求めて接近して行った永享~文安年間頃と推定される3月3日の中務少輔家持書状(遠藤白川文書/県史7)には,「小野保之内田原屋・羽出庭彼二郷之事」は岩城周防守(清隆)に返付されることになっていて,田原屋郷は周防守に返付されたが,羽出庭郷は中務少輔家持が白河殿(直朝か)と談合して知行することになったとある享徳3年7月11日の道金譲状(岡本文書/県史7)には「一,小野ほうニあかぬまミやうふ内出しを小たいら内一丁,一宇……隆しけゆつり相そゑてゆつりわたす処実也」とあり,小野保内に岩城氏の所領があったことを示している戦国期には田村氏と岩城氏の抗争の場となった田村氏は天正16年には田村清顕の女婿である伊達政宗に完全に服属した政宗は同17年11月には岩城常隆と和睦し,常隆から小野・大越を返還させているなお,慶長14年7月2日の聖護院准后令旨(青山文書/県史7)には「奥州田村六十六郷,并小野六郷」とあり,小野保以来の広域地名として用いられていたことが知られる中通り中部,ほぼ現在の小野町一帯に比定される...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

小野郷(古代)
 平安期に見える郷名...

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小野村【おのむら】
(中世)平安末期から見える村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

小野村(中世)
平安末期から見える村名下総国葛原牧のうち香取社神領の1つ保元元年10月の関白(藤原忠通)家政所下文に「社領葛原牧内織幡・小野両村」とあり,香取社大禰宜大中臣家の相伝所領として実房から惟房に譲与されている(旧大禰宜家文書/県史料香取)当時,大中臣家は香取社大宮司を兼帯した鹿島社神官中臣家と所領相論を行っており,応保2年閏2月には大宮司中臣助重が関白左大臣(藤原基実)家政所下文によって「当社四至内織服・小野・綱原三箇村」の知行を認められている(香取大宮司家文書/平遺3193)当村は,鎌倉中期まで大禰宜職とともに惟房・実員・実澄・実藤・実久と大中臣家の嫡子に相伝されたが,この間,元久~寛喜年間には中臣道助が当村と織幡村の領有を主張して争っている(旧大禰宜家文書/県史料香取)大中臣家は実員の子の代に実澄・実広の2流に分かれ,鎌倉後期には,両流の間で大禰宜・大宮司職と当村を含む所領をめぐる相論があり,実澄流が勝訴したものの,実久の子の代になると,実政・実宗・実成の兄弟,あるいは実政子息の実親・実胤・実康・実幹らの間に同様の相論が絶えなかった(同前)嘉元2年4月22日,実康・実秀・実胤・実幹は「香取社領葛原牧小野・織幡」以下12か村の所務について各々4分の1ずつ知行するという和与を行い,南北朝期まで当村以下の所領は分割知行された(同前)暦応4年9月26日付千葉貞胤安堵状では「小野・織幡・葛原牧所務」の違乱停止が被官中村弥六入道(聖阿)に命じられているが,貞応年間には当村以下の神領はほぼ中村氏に押領されるに至った(同前)貞治2年,千葉氏胤が死去して千葉一族内に動揺が生じ,これに乗じて実胤の孫長房は所領返還の訴えを起こしたが,中村式部丞胤幹は濫妨を止めず,香取社神官大中臣実秋・実持らもこれに与同,ついに香取社中に軍勢が乱入し放火に及ぶという大争論に発展した(旧大禰宜家文書応安5年11月9日付藤氏長者宣・同年11月14日付管領奉書・同11月日付長房訴状など/県史料香取)応安7年に相論が終息すると,当村を含む大禰宜家領は長房の手に帰し,至徳年間には「おの・おりはた両村ならひニつなはらの村」が長房嫡子満珠丸(幸房)に譲与され,以後,室町・戦国期まで大禰宜家が相伝している(旧大禰宜家文書/県史料香取)大永8年7月27日には国分三河守胤相が小野・織幡村内の田地5反を香取社に寄進しており,戦国期には千葉一族の国分氏が勢力を伸長した(同前)当村は大中臣家の葛原牧開発によって成立し,当初は織幡村に含まれたが平安末期には分離し独立の一村となった鎌倉期の弘長元年11月25日付葛原牧内小野・織幡地帳によれば,当村の田積は159筆32町6反余,そのうち128筆23町2反余は金丸名であった(旧案主家文書/県史料香取)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

小野(中世)
 鎌倉期から見える地名...

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小野荘【おののしょう】
(中世)南北朝期~戦国期に見える荘園名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

小野荘(中世)
南北朝期~戦国期に見える荘園名御玉【おだま】荘ともいう豊後国国東【くにさき】郡来縄【くなわ】郷のうち「御玉荘」または「高田御玉小野之庄十二名次第」とあり,当荘は現在の豊後高田市大字高田の御玉にあったことがわかる(永弘文書/大友史料7・17)桂【かつら】川下流右岸で,現在の若宮八幡宮鎮座地付近一帯である建武4年9月日の小野荘吉成御駈士□原安弘申状案に,「小野庄吉成御駈士」とあるのが初見(到津文書/大友史料5)小野荘は宇佐郡岩崎荘とともに,宇佐宮に御供米・厨家米を出す特別な荘園で,番長永弘氏の所領であった小野荘は12名・岩崎荘は6名から成り,いずれも均等名であった小野荘は面積36町歩で,各名は8反30代を有し,その作人(のち名主となる)を駈士という駈士は神人で若宮社の神官で,宇佐行幸会に騎馬の武者役を勤めたらしく,その名称もこれに関係があろう名田を進退する役所を部主【へぬし】といい,1名8反30代の残りは余地(後田という)として管理し,本田の欠失の場合は余地から補充本田・余地ともに欠失の時は近所の田地を取って供田に立て替えた正御供田は聖武天皇の御宇,神亀・天平年中の寄進という(到津文書/大友史料12)こうした形態になったのは,封戸に端を発し,部主は戸主から起こったものただし供米ははじめ浮免形態であったが,鎌倉末期から南北朝初期に定免化し,上記の形態となったという(工藤敬一:九州庄園の研究)これに対して,岩崎荘の「後田」が長元元年2月13日の大中臣守安等塩田譲状案に見えるので(永弘文書/大友史料1),長元頃の成立とする新説が出た(中山重記:宇佐宮御供田庄岩崎庄・小野庄の研究/大分県地方史66)明応10年頃の当荘の12名は吉成名・行成名・成安名・清末名・かうまん名・正行名・為成名・ひろ本名・光成名・二郎丸名・ちか時名・久次名で,初見文書の吉成や為成がそのまま見えるので,終始固定的であったものと思われる12名の駈士はその名を苗字として存続し,元亀年間には本社や当若宮社の御剣役・陳道役・御かせの役・御供所の役が定まり,吉成伊豆守賢安は若宮社司で浜検校を兼ねている(高田ノ若宮社/太宰管内志下)「小野庄至御玉御駈士宅所」とあり,宅所は御玉にあったが(到津文書/大友史料15),今日大部分は対岸の水取【みつとり】に居住している(天正元年頃)11月8日の大友氏年老連署書状に,「当郷小野庄従十二名調納之社米」とあり(高田若宮八幡宮文書/大友史料23),天正15年6月3日の宮成公基所領注文にも,「一所正御供田小野庄三十六町」とあり(宮成文書/県史料24),なお当荘が供田として機能を発揮しているようであるこの宮成文書が終見...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

小野村(中世)
 戦国期に見える村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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