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「尾上」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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尾上村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
尾上菊五郎【東京雑学研究会編】 尾上菊五郎は歌舞伎俳優... |
出典:東京書籍「雑学大全」
尾上町【おのえちょう】 (近代)明治4年~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
尾上村(近代) 明治22年~昭和12年の南津軽郡の自治体名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
尾上(中世) 鎌倉期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
尾上村【おかみむら】 (近世)江戸期~明治8年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
尾上村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国速見【はやみ】郡八坂【やさか】荘のうち高山川支流船部【ふなべ】川右岸に位置する文禄4年前田玄以領,慶長元年杉原長房領,同4年中津(のち小倉)藩細川領,寛永9年木付(のち杵築)藩小笠原領,正保2年から同松平領元和8年の「小倉藩人畜改帳」では木付上庄に属し,長岡興長知行地村高82石余,家数26・人数36,牛8「正保郷帳」は上庄村のうち,「見稲簿」66石余,「天保郷帳」127石余,「旧高旧領」134石余文久3年の田8町3反・畑8町1反,5歳以上人数105(工藤家文書)細川領時代森永手永,延宝7年八坂手永文化元年から八坂郷船部組に属した同村には弁差が1名いた杵築城下から波多方峠を越えて高田に通ずる波多方【はだかた】往還に沿う村落わずかばかりの平坦地と斜面を利用した水田を持ち,米作および七島藺栽培を主とする農間余業は七島表(畳表)を織った山神社が字尾田にあり,尾田井手神社とも呼ぶ称興寺は大友軍の焼打ちにあい,再建できずに廃寺となり,寺跡に堂宇がある明治4年大分県に所属同8年船部村に合併現在の杵築市大字船部のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
尾上村(近代) 明治22年~昭和25年の加古郡の自治体名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
尾上村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
尾上町【おのえまち】 (近世~近代)江戸期~昭和45年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
尾上町(近世~近代) 江戸期~昭和45年の町名江戸期は岡山城下の1町,町人地明治11年岡山区,同22年からは岡山市の町名城下の南部,外堀の西に位置する東は,北部が外堀,中部が大雲町,南部が大工町と接し,南は桜町,西は武家地七軒町と浜田町・高砂町,北は常盤町と接する南北の町並み露屋二郎三郎という者が当町を取り立てたと伝え,古くは二郎三郎町と称したまた松の町とも呼ばれたが,延宝5年には尾上町と見える(旧岡山市史3)寺院には浄土宗報恩寺がある天明8年の調べでは,諸物問屋3軒がある(同前4)貞享元年の岡山町中御検地畝高地子帳(池田家文庫)によれば,高12石余,畝数1町1反7畝余,うち免除の報恩寺などを引き,残り9反5畝余に対して徳米10石余・口米2斗余嘉永7年の家数153,人数333うち男158・女175(旧岡山市史3),昭和7年の戸数73,人口292うち男131・女161(同前6)同44年一部が南中央町となり,残余は同45年東中央町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」