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- 小野荘(中世)とは
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![]() | 小野荘(中世) 平安末期~戦国期に見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 小野荘(中世) 室町期から見える荘園名吉富【よしとみの】荘ともいう坂田郡のうち「井戸村記録」に「梅ケ原ハ小野庄也」とあるように,現在の米原【まいばら】町の梅ケ原以南が荘域と考えられる「輿地志略」では,物生山【むしやま】村・馬場【ばんば】村・西山村・上櫓【かみやぐら】村・鳥居本【とりいもと】村・西方寿村・百々【どど】村・小野村8か村をいうとしているこの小野荘と播磨の細河荘は,もと後鳥羽天皇の設置した和歌所の「永領」であったが,いつしか定家らの私領となったという説が古くより流布しているが(なぐさめ草・惺窩文集),これは誤説小野荘は以前吉富荘とも称されたが,和歌所の置かれた建仁元年7月より以前の建久7年4月の「明月記」に,すでに吉富荘は定家の荘として見えるのち冷泉家が代々小野荘の領家職を保持していたが,将軍足利義政の時一旦没収長禄2年5月になって義政はこれを冷泉政為に還補し,細川勝元は施行状を六角高頼に与え,「小野庄領家職并半済内半分」を政為に渡すべしと命じている(蒲生郡志2)また文明10年の京都西山三鈷寺の「当知行目録」によれば,小野荘内に三鈷寺の梵網経田が存在していた(三鈷寺文書)永正17年10月の「下荘畠地売券」には,「坂田南郡小野下庄」とあり,この頃荘内が南・北2荘に分かれていたことがわかる(東浅井郡志4)降って天正19年検地の際の「長束正家書状」に「朝妻,多良,小野庄」と見える(坂田郡志上)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 小野荘(中世) 鎌倉期~南北朝期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 小野荘(中世) 室町期~戦国期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」