ケータイ辞書JLogosロゴ 加古川村(近世)


兵庫県>加古川市

 江戸期〜明治12年の村名。印南郡のうち。姫路藩領。村高は,「正保郷帳」805石余うち田654石余・畑134石余・泊大明神社領16石,「元禄郷帳」(竜野市立図書館蔵)806石余,正徳2年685石余,寛延2年954石余,文化13年806石余(加古川市誌1),「天保郷帳」1,014石余,弘化4年954石余(同前),「旧高旧領」1,014石余。慶安2年船頭村を分村(加古川市誌1)。ただし,「元禄郷帳」には同村は当村枝郷として見える。寛永3年から延宝5年までの50年間に水害などの川欠で298石余が永引となった(同前)。寛延2年に村高が増加しているのは新田開発や川欠の再墾があったからという。文化13年には水害により再び減少し,天保10年に西宿が決壊して田地が30町歩荒地などになった(同前)。神社は春日神社。寺院は,真言宗仏頂山称名寺・浄土宗新福寺,ほか地蔵堂・薬師堂がある。称名寺は聖徳太子の創始と伝えられ,はじめ西光寺と称し,鎌倉期に糟屋有教が加古川城を築き菩提寺とした。延文3年に大洪水があって七堂伽藍を流失したが,貞治2年には再建されたといい,慶長8年高野山遍照院寛海上人が勝名院と命名,のちに称名寺とする(同前)。薬師堂は,オランダ人夫婦がこの地へきて村人の病気を治し,薬師如来を安置したことから唐人薬師とも呼ばれた(播磨鑑)。加古川の流れが安定するに伴い開墾が進められた。寛永12年には参勤交替が始まり,加古川宿が本宿となる(加古川市誌1)。貞享元年,大火があって表38軒・裏12軒,渡し守1軒の合計51軒が焼失,23軒が残った(加古川明細記/加古川市誌1)。文政4年には綿繰車の製作所が40軒余あり,橋元屋・西宿屋・繰屋・車屋など20軒の製造元があった。繰屋は車を年間230台製造,販売先は全国に及んだ(加古川市誌1)。享保10年塩座を設けて高瀬舟の積塩運上銀を徴収(塩座由来記/同前)。天保元年加古川芝居小屋開設,明治10年頃まで続いた(糟谷文書/加古川市誌2)。明治4年モリスによって伝言機(電信)の標杭を6本たてる。同5年麛水小学校が称名寺内に開校,同9年には寺家町の麑松小学校に統合。同7年これまでの渡し船から初めて加古川に橋が架けられたことで,宿場町の状況に変化が起きた。同10年西河原村を分村。同12年加古川町となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7389334
最終更新日:2009-03-01




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