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「鍛冶屋町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

鍛冶屋町(近世)


江戸期の町名伊丹【いたみ】村(伊丹町)を構成する27か町の1つ寛文年間までに成立旧有岡城侍町地域の西縁に位置するのち殿町ともいう天明6年には江戸積酒造人山田屋五...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7389418]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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鍛冶屋町(近世)

江戸期~明治8年の府内城下の町名町組府内町内30町の1つ府内庄屋支配に属す府内城の西南にあり,北は清忠寺町,南は於北【おきた】町・光西寺,東は西上市町,西は笠和町に接する貞享元年の「万覚」によれば,南頬30間・北頬30間,道幅3間・南北の入15間の町で,西に3間の脇道があった鍛冶職の集住した町であったが,その家数は明暦元年11・元禄6年9・寛保3年6・明和8年5・文化10年3と時代が降るとともに減少「四つ目鍛冶」と称する家があり,そのうちの1軒である富田家の過去帳には,「渡辺権之助五男久左衛門,大友公御用刀鍛冶国宗と申す人に,応永年中この弟子に成り,四ツ目久しく字極め印打ち始め申し候」とある(大分県史蹟名勝天然記念物調査報告書17)明治4年大分県に所属同8年府内町・松末町・千手堂【せんじゆどう】町・同慈寺【どうじじ】町・笠和町・荷揚町・南勢家町と合併して大分町となるなお同22年から大字大分の字名・通称地名として存在昭和20年7月16日夜および8月10日の米軍空襲により焼土となる昭和38年の新住居表示直前には通称地名は使用されていず,若草に含まれている新住居表示で現行の大分市中央町の一部となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世)
江戸期~明治7年の町名大野町のうち天正年間金森長近によって作られた南北の縦筋6本の街並みのうち三番町と五番町に囲まれた地域四番町のうち中区にあたる地域であり,四番町の一部として扱われることもあったが,独立した一町として把握されることが多かったなお,従来当町の区画は七間町と八間町の間の四番縦通りといわれてきたが,古文書や実測によると七間町角より下って現本町9番4~16号までの両側にあたるという天正年間初め大野城下の町づくりをした金森長近・原政茂らより安堵状を与えられた鍛冶屋衆が元禄年間頃までには四番町中区に鍛冶座を確立以後も格別の保護を受けてきた寛保3年には21株21軒の鍛冶屋があり当町庄屋の管轄下にあったが,潰れ株も出て文久2年には18軒となっている城下町当時の姿のままに区割は残っていて旧鍛冶屋を示す「かじそ」「てっぽうや」などの屋号を持つ家が現在もあり,また鍛冶屋文書(尾崎家文書)が残っている明治7年東四番町・西四番町の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世)
江戸期~明治12年の町名江戸期は熊本城下坪井新坪井町懸の1町加藤清正が城下町建設の時,かつての国府,飽田【あきた】郡二本木付近から,商工業者を城の東北部坪井にも移転させて開いた町人町の1つ府中案内道矩(県立図書館蔵文書)には「新坪井鍛冶屋町二丁,小間物丁ノ南次ノ町」と見える新坪井町の二丁目の北側に位置し,当町から北は本坪井町懸となっていたまた東側は御長柄者や切米取の侍屋敷が並んでいた(外坪井・千反畑之絵図/県立図書館蔵)坪井の地は火事が多く,明和7年6月25日には鍛冶屋町往生寺脇から出火,侍屋敷77軒・歩徒之者足軽屋敷136軒・町家255軒・寺院8か所を焼く火事が発生している(細川藩之大火/細川藩事彙4)明治12年北新坪井町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世)
江戸期の町名犬山城下町方12か町の1町名栗町から北へ入った本町通りの1本東の筋に位置する南北の竪町北は練屋町に続く明治15年までの針綱神社が名栗町に鎮座していた時は,東側のみの片端町であった天正~慶長年間頃に職人の町として発達した当時刀鍛冶・農鍛冶が36軒程あった事から町名が起こった地子免許の代わりに日役8人分を勤めた慶長11年愛宕神社を建立した長泉兼常は,刀工で,尾州名古屋相模守藤原政常の先祖当時の刀工では,兼武が名工として有名また当町を中心とした犬山の農鍛冶の名は広く聞こえて,関東方面からも道具を求めて訪れる者もあった(犬山里語記)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶屋町(近世)
江戸期~明治10年の町名伏見町のうち北組本町12町の1つ津知橋通に沿い,京町通より東,魚屋町より西に位置する「府地誌」は鍛冶肆店が列をなしていたと記すが,年代は詳らかでない城下町時代を豊公伏見城ノ図で見ると,津知橋通の北側は東部が本田丹下,西部が奥田良右衛門の各屋敷で,南側は水野対馬守屋敷寛文10年山城国伏見街衢並近郊図では「北鍛冶屋町」と記され,津知橋通の南北両側に民家が並ぶ天保頃の軒数は31軒(伏見町誌)明治元年15番組,同5年伏見第2区,同7年第1区に所属同10年堀内村へ編入...

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鍛冶屋町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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鍛冶屋町(近世)
江戸期~明治12年の彦根の城下町の中の町名城下町中央部の町家地域で,町名の由来は鍛冶屋の居住地域であったことによる元禄8年の戸口(武士を除く)は26戸・135人で,うち鍛冶屋が20戸を占めていた(大洞弁財天祠堂金寄進帳)嘉永3年の戸数38,うち借家15(四手町組家持及借家数留書/彦根市立図書館蔵)明治12年,上細工【かみさいく】町・油屋町・京橋上片原町・埋堀【うめぼり】町と合併して三番町となる...

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鍛冶屋町(近世)
 江戸期~明治22年の町名...

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鍛冶屋町(近世)
江戸期の町名江戸初期清須城下の1町清須城の北西に位置する「尾張志」に桑名町の続き,その先は北市場分とある「駒井日記」によれば,文禄3年の清須町奉行家改帳の日比野下野守請取の町として,家数38,なお,池田丹後入道請取分に鍛冶町分(異本に鍛冶屋町分)家数98とあるが,同じ町を指すのかは不詳である慶長15年頃始まった清須越により名古屋城下の一部となったと思われる...

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鍛冶屋町(近世)
江戸期~明治5年の町名堺町のうちはじめ南本郷,元禄6年南組に所属文久3年改正の堺大絵図によると,大道筋の大町から東へ7筋めに位置し山上鍛冶屋町とある元禄8年の「手鑑」によると地子銀36匁余・役家数19軒,享保5年には地子銀36匁余・家役数18役(堺市史5),寛政11年の石銀家数寄帳では家数22軒・地子銀36匁余・家役数20役(全志5)明治5年大町東1~4丁となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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