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「門田」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 門田荘(近世) 江戸期に見える荘名会津郡・大沼郡・河沼郡のうち属した村々は,「会津風土記」「新編会津」によれば,滝沢・蚕養宮・牛墓・藤原・郷原・北柳原・下柳原・上居合・下居合・松窪・長原新田・金堀・原・西田面・上馬渡・下馬渡・原新田・赤井・篠山・中田・崎川・東田面・経沢・高久・横沼・神指・高瀬・如来堂・小見・鍛冶屋敷・深川・幕内・西柳原・西城戸・天満・東城戸・平沢・中地・上吉田・下吉田・下高野・鶴沼・上高野・沼木・中明・藤室・上荒久田・下荒久田・中前田・木流・東森台・中森台・界沢・中荒井・二日町・東麻生・宮袋・宮袋新田・寺堀・今和泉・鷺林・本多・十二所新田・宮下・荒田・下荒井・蟹川・礫宮・真渡・中里・石原・田村山・舘・出尻・台・和泉・上米塚・上荒井・下野・金屋・北後庵・新在家・西麻生・柏原・下米塚・両堂・西後庵新田・大島・下小松・上荒井新田・南青木・北青木・小田・天寧・慶山・僧院内(院内)・湯本・河渓・大巣子・一渡戸・酸漿・二幣地・黒森・闇川・大豆田・香塩・南原・上雨屋・宮内・下雨屋・石・面川・面川沢・堤沢・御山・中野・井手・中島・花坂・松原新田・一堰・徳久・飯寺・小塩の124か村文化15年の村日記(県史10下)によれば,上記124か村に,八角分・上河原分・天寧寺分・材木町分・千石町分・南町分・赤岡分・石堂分・達麻分・小黒河分・沢田・大石目・小沢・出戸田沢・和田新田・葛麦目・簗田・西原・入田沢・高田・境新田・上中川・安田・境野・雀林・米沢・竹原・西勝・屋敷・佐布川・寺崎・檜目・沖中田・根岸中田・阿久津・新屋敷新田(大沼郡)・佐賀瀬川・富岡・立行事・新屋敷・軽井沢・橋爪・新堀・領家・前田・田蠃岡・関山・福永・大八郷・田中・下中川・福光・八重松・上小松・相川・本郷・松野・大石・穂谷沢・馬越・小谷・北滝沢・代田・郡山・嶋・岡谷地新田・鴨田新田・北高野新田・冬木沢新田・藤倉・高畑・京出・方便・大和田・堂嶋新田・茶臼森新田・熊野堂新田・塩庭・駒板・堺新田・稲原新田・漆沢新田・浅野・中林新田・南高野・新屋敷新田(川沼郡)・横堀新田・塩庭新田・駒板新田・生江新田・長谷地新田・八田野新田・小山新田・堤崎新田・原田新田・沼目新田・原・六町原・槻橋・藤倉新田・倉道新田・強清水新田の102か村を加えた226か村現在の会津若松市・北会津村・新鶴村・柳津【やないづ】町・会津高田町・会津本郷町・河東【かわひがし】町のあたり |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 門田荘①【もんでんのしょう】 (中世)南北朝期から見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 門田荘①(中世) 南北朝期から見える荘園名会津郡のうち貞治4年11月13日の平井明秀寄進状案(実相寺文書/県史7)に,「知行分内在家一宇田一町畠二面大会津郡内門田奉向実相寺一切経輪蔵,永代寄進申所也」とあるのが初見で,河沼郡萱津村の領主平井明秀が,黒川(現会津若松市)の実相寺に在家1宇・田1町・畠2面を寄進している応安4年には9月12日の佐原高明寄進状案(実相寺文書/県史7)に「寄進会津門田実相寺輪蔵」と見え,耶麻【やま】郡加納荘領主の佐原十郎高明が,会津郡門田荘の実相寺に輪蔵を寄進している応永18年10月11日の沙弥某寄進状(融通寺文書/県史7)に,「門田中荒居内三所宮」とあり,沙弥某が門田荘中荒居村の三所宮を黒川の融通寺に寄進している大永2年3月28日の蘆名盛舜寄進状(高巌寺文書/県史7)に,「門田之荘東黒川之内高巌寺屋敷,并門前田百五十苅,合三貫文之所」と見え,門田荘東黒川の高巌寺の屋敷と門前の田150苅,合わせて3貫文の地を蘆名盛舜が守護不入の地として寄進したことがわかる天文7年4月1日の蘆名盛舜・同盛氏連署判物(新編会津所収文書/県史7)に,「門田庄・耶摩郡両所之諏訪用等」と見え,蘆名盛舜・盛氏父子が黒川諏訪社神職笠原兵衛大夫に,門田荘と耶麻郡両所の祭礼用途を支配させている天文9年2月27日在銘の諏訪神社棟札(同前)に,「門田荘黒川諏方大神宮」とあり,天文7年3月15日の大火で焼失した門田荘黒川大神宮(諏訪社)が,蘆名盛氏とその重臣たちによって再建されている天文14年正月吉日写しの熊野宮相撲田楽日記案(熊野宮文書/県史7)に,「もんてん」と見え,戦国期頃まで耶麻郡新宮荘新宮村の熊野宮の大祭礼のとき行われていた相撲田楽に,門田荘の村々からも参加していたことがわかるまた「新宮雑葉記」によれば,新宮荘地頭新宮氏の居城新宮城を陥した蘆名氏によって黒川城下に移された新宮の人々は,故郷の新宮の祭礼に参加したというなお文禄3年の蒲生高目録には門田郡が見える会津地方中部,現在の会津若松市・北会津郡北会津村一帯に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 門田屋敷【かどたやしき】 (近世~近代)江戸期~現在の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 門田屋敷(近世~近代) 江戸期~現在の町名昭和42年からは1~5丁目がある江戸期は岡山城下の1町,武家地明治11年岡山区,同22年からは岡山市の町名城下の東部,旭川左岸に位置する城下拡大に伴い,寛文9年門田村の集落を東方の山すそ付近へ移して跡地が武家地に割かれ,成立当初は29人の屋敷地が割り渡されたが,のちに拡大,国清寺から玉井宮にむけて広い参詣道が付けられて大道と称し,大道沿南側に,庭園東湖園が現存する重臣丹羽氏下屋敷,北側に同池田伊賀下屋敷があり,ほか中・下級の武家屋敷が並んだ東方,国清寺東堀沿いの片側町を国清寺後の町と呼び,このほか,もと伊賀屋敷と呼んだ門田南忍び屋敷,士鉄砲屋敷・東照宮御山道・仲間屋敷,忍び屋敷東西の町・忍び屋敷南北の町,新屋敷などがあった明治20年に石井十次は地内の三友寺に岡山孤児教育会(のちに岡山孤児院)を設立,同23年には岡山孤児院尋常高等小学校を作り,一時は孤児1,200名を集めて全国に知られた孤児院は大正15年に解散明治40年地蔵川西(門田分)に絹糸紡績が操業開始,同44年鐘淵紡績岡山絹糸工場となる大正12年岡山電気軌道旭東線(現東山線)が完成,路面電車が国清寺西側で左折して大道を通り東山まで通じた昭和7年の戸数579,人口2,486,うち男1,117・女1,369(旧岡山市史6)同20年の大空襲で地内のほとんどが被災,鐘紡岡山絹糸工場は廃業し,跡地の北部に昭和22年山陽女学校が移転し,翌23年山陽学園女子高校となる同じ跡地の南部は昭和22年岡山紡績が創業,同26年綿糸,同35年合繊糸紡績をとり入れ地場中堅企業としての地位を高めたが,現在は廃業昭和26年には岡山孤児院跡地に岡山博愛会病院が移転開業し,花畑の旧院はその分院となった同42年一部が,門田屋敷本町・徳吉町1~2丁目・中納言町となり,同時に門田・網浜の各一部を編入... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 門田村【もんでんむら】 (近世)江戸期~明治9年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典」
![]() | 門田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 門田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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![]() | 門田村(近世) 江戸期~明治9年の村名道途【かどで】・門出【かどで】とも書き,「もんで」ともいった庄内地方,庄内平野北部,日向【につこう】川下流左岸に位置するはじめ遊佐【ゆざ】郡,寛文4年からは飽海【あくみ】郡のうちはじめ上杉氏領,慶長6年最上氏領,元和8年からは庄内藩領荒瀬郷に属す村高は,元和8年の御知行目録では8石余,寛永元年の庄内検地高辻では門田村・西方村ともに65石余,明暦2年の検毛帳(飽海郡誌)では36石余,「天保郷帳」97石余,「旧高旧領」103石余幕末期の「弐郡詳記」によれば,免6ツ4分,家数11軒吹浦【ふくら】(現遊佐町大字吹浦)大物忌神社,月山神社の獅子頭・鉾を荒瀬郷に渡す際に,当地を首途としたことから首途村と称し,後に門田の字を用いるようになったという(飽海郡誌)当村では漁業も行われ,正保3年の庄内三郡左沢浮役帳(酒井家文書/県史17)によれば,「いくり壱とう」,鮭役として銀14匁余を納めている当村は日向川の洪水に襲われやすいため,寛文2年に現在地へ移転した(飽海郡誌)神社は吹浦大物忌神社から勧請したという大月神社があり,社名は大物忌・月山両神社の各1字をとってつけられたという明治4年の村明細帳(県史13)によれば,村高103石余,反別12町9反余,家数11軒・人数88(男48・女40),馬3,船4艘,渡し場1か所,雑税として蝋役・漆役が課されている明治初年頃門田新田村を合併したものと思われる鶴岡県を経て明治9年山形県に所属同年上市神新田村・下市神新田村と合併して穂積村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 門田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 門田(中世) 鎌倉期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」