ケータイ辞書JLogosロゴ 上岡郷(中世)


兵庫県>龍野市

 鎌倉期〜室町期に見える郷名。播磨国揖東【いつとう】郡のうち。神岡とも書く。「荘園志料」は神岡荘として大住寺・上伊勢・下伊勢の3か村をあてるが,これは「竜野志」を出典としたと思われ,神岡荘のうち近世の脇坂竜野藩領の村々を記したものにすぎず,現神岡町域のうち越部下荘の東觜崎を除く全域にわたる。永徳2年8月6日に作成された絵図を天明8年3月に書写した弘山荘田畠実検絵図写に弘山荘の北に「北上岡」と見える(円尾光文書/竜野市史1)。文永10年10月日の伊和社神官・講衆等愁訴状に「二通 院宣案〈当国上岡郷公文真正狼藉事,為傍例備進之〉」と見える(伊和神社文書)。「喜多野天用性公居士三十三年拈香」によると,喜多野行綱は上岡郷出身の土豪で,はじめ新田義貞に従って白旗城攻めに加わり,敗れたのち蘭洲良房に帰依して京都の北野神社の近くに住んだ。行綱は将軍足利義満より偏諱を与えられ義綱と改名し,姓も北野を喜多野に改め,上岡に蘭洲良房を開山として大義寺を建立し,荒廃していた金剛寺を再興している(黙雲稿)。金剛寺は正和年間頃に仙覚上座が上岡山崎に建立した東福寺聖一派の禅寺である(峰相記/続群28上)。明徳元年には播磨出身の慈伝和尚鎮継は赤松方奉行の喜多野壱岐入道の招きを受け上岡八幡宮(梛木神社)で法華経の談義を行っている。「大乗院寺社雑事記」康正2年12月日条などには「神岡庄」と見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7389663
最終更新日:2009-03-01




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