ケータイ辞書JLogosロゴ 賀屋荘(中世)


兵庫県>夢前町

 平安末期〜戦国期に見える荘園名。播磨国飾西【しきさい】郡のうち。養和元年12月8日の後白河院庁下文によると,新熊野社領の1つとなった(新熊野神社文書/平遺4013)。しかし,荘内の諸権益は細分化されて,その領有をめぐって複雑な様相を呈している。鎌倉期の元亨2年5月23日および同年閏5月6日には「賀屋荘」が安楽光院領であるかどうかが問題となっていることから,本所職は禁裏料所と考えられる(花園天皇宸記1/大成)。南北朝期の延文5年の造内宮役夫工米未納荘々注文写に「かやの荘〈しんしやう・ほんしやう・あ□の〉」と見えるので,賀屋荘は新荘・本荘・あ□のの3地域から構成されていたのであろう(教王護国寺文書1)。室町期の永享5年正月日の賀屋荘公文名年貢目録によると賀屋荘の公文名は播磨国一宮伊和神社領となっており,田地が9反15代あって米・小豆・大角豆・麦などを産出するほか,地内の「坂本」では市が立ち,和市による代銭納が普及していた(伊和神社文書)。また,嘉吉元年9月23日には万里小路時房の所領のうちに「一向不知行〈賀屋……事〉」と見え,時房はこれらの所領に関して細川持之を通じて幕府から安堵を得るべく画策,安堵を得ることができたという(建内記4/古記録)。しかし,同年9月29日には「賀屋荘事,昨近(ママ)相尋三福寺,当寺ハ領家知行也,其内守護違乱之地在之……地頭ハ〈清水〉宝福寺知行也,新熊野へ上分沙汰之云々」と見えるから実際は三福寺が領家職を,宝福寺が地頭職をそれぞれ知行しており,新熊野社は上分取得者であった(同前)。また,守護山名氏による違乱もあったらしい。文安4年6月記の紙背に「所領事,播磨国賀屋荘……自仙洞被召之云々」と見え,15世紀中葉には万里小路家の所領から院領に繰り入れられたものと考えられる(建内記8/同前)。下って戦国期の文明8年6月日の日付をもつ雪彦山三所権現勧進帳によると,「播磨国賀屋荘雪彦山本堂并三所権現神殿」を僧明阿の本願と勧進活動によって造立している(賀野神社文書)。同17年11月28日には,山名政豊によって「播磨国飾西郡賀屋荘内公文職〈福岡修理亮分〉」が但馬国妙見社に寄進されており,守護の進退権が強まってきている(日光院文書/大日料8-17)。この時期,相国寺領もあったらしく,相国寺蔭涼軒留守居役季瓊真蘂は同19年8月27日に「播州賀屋荘代官職事……国属無為者,必限年紀可補任之由領掌云々」と記しており,代官請負いが行われていた(蔭涼軒日録3/大日本仏教全書)。代官請負は三福寺領でも行われ,天文9年10月28日には「三福寺領播州賀屋荘ノ内在事,代官宇野越前守無沙汰候」と見えるように代官に入った守護被官や国人らが次第に寺納を怠るようになり,三福寺では納所僧などを現地に派遣しているが効果はなく荘園としては退転していった(大館常興日記2/続大成)。夢前町東部の夢前川上流域の谷を荘域としたと思われる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7389915
最終更新日:2009-03-01




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