ケータイ辞書JLogosロゴ 苅屋村(近世)


兵庫県>御津町

 江戸期〜明治22年の村名。揖西郡のうち。はじめ竜野藩領,万治元年からは讃岐国丸亀藩領。村高は,「正保郷帳」522石余うち田439石余・畑82石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに781石余。西讃府志によると,村高747石余,田45町5反余・畑3町5反余・屋敷2町余,年貢米405石余・大豆83石余,家数147・人数779,牛24,上荷船5・漁船5。鎮守は富島八幡宮・貴船大明神2社相殿(現富島神社)。同社は釜屋・黒崎・苅屋・浜田(現姫路市)4か村の氏神。八幡宮は永和年間武山城の鎮守で赤松家の尊崇した社,貴船社は上の宮と称して下村にあったが万治年間当地に移されたものという。寺院は禅宗(臨済宗)富島山海源寺・一向宗(真宗大谷派)白雲山徳正寺。番所があり,揖保川河口の警備をした。水利は荘内井堰から取水。産業は古く塩浜であったが,後世は米麦作が中心。特に揖保川支流中川と元川の間の洪積地は中州となって河原畑として耕作された。小物成として加子米13石余・塩浜運上87匁余・新田溝運上21匁・問屋運上1貫200匁など。丸亀藩領時代は,興浜・浜田ともに網干三ケ村組で,加子の徴発,人夫の夫役などは他村より多く課された。また漁業も盛んで海苔は名産であった。正徳年間船庄屋が置かれ,廻船20・中小船各1・上荷船3・過書船1の船があった。万延元年から苅屋地先寄州の開発が加東郡の播州長者近藤文蔵によってなされた。「旧高旧領」には苅屋近藤新田140石余と書き上げられている。明治10年の土地台帳には,字近藤新田未開発地30町3反歩が登録され,所有者は加古郡高砂町播磨興農社となっている。明治6年必成小学校開校,同11年開明小学校の支校となり,同18年廃校。同22年御津【みつ】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7389954
最終更新日:2009-03-01




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